表示調整
閉じる
挿絵表示切替ボタン
▼配色
▼行間
▼文字サイズ
▼メニューバー
×閉じる

ブックマークに追加しました

設定
0/400
設定を保存しました
エラーが発生しました
※文字以内
ブックマークを解除しました。

エラーが発生しました。

エラーの原因がわからない場合はヘルプセンターをご確認ください。

ブックマーク機能を使うにはログインしてください。
鉄塔のアエネイス  作者: 民間人。
1896年
27/361

‐‐●1896年秋の第一月第二週、エストーラ、ブリュージュ郊外‐‐

「これは……嵐が去った後のようだ」


 秋のブリュージュの森林地帯と言えば、栗や団栗、茸や山菜が生い茂る食材の宝庫である。祖国での壮絶な首脳へのバッシングで散々走らされた彼は、期待したものがただの少しもないことに愕然としたのである。


 森を横切る危険を冒した馬車が目にしたのは、本来この場所に実るはずであった何かがすっかりもぎ取られて、無惨な枝だけが取り残された天然の果実園の姿であった。


「『失楽園』……」


 思わず零れた言葉に、彼自身が驚く。しかし、彼には、この場所をそう表現するしかなかった。

 枯草の茶色で化粧をした木々の間を進むと現れる、半壊した瓦礫の要塞。カペル王国の魔術兵(せいえい)たちが取り囲む、商人の楽園。肺を凍てつかせるムスコール大公国のにおいから逃れたその後に彼らが目にしたものは、他ならぬ廃墟の姿であった。


 やがてはっきりと市壁が確認できるようになると、周囲には魔術師や弓兵、騎士たちが身を縮めながら市壁を睨む姿が現れる。町へ近づくにつれ増大する犠牲者たちは、道の隅に寄せられたまま、蠅がたかるのに任せて放置されていた。


 血と死体の臭いが強烈になっていく。息をするのも困難な耐え難い異臭に、彼は顔を歪ませて口を覆った。


 目を瞑り、鼻をつまめど、目前に迫る怒りと憎しみの歌は避けられない。彼は徐々に現実を受け止めて、失楽園へ続く地獄の道を正視した。


(国民が元首を責めるのも無理はない。これでは、平和とは程遠いではないか)


 彼は、祖国を改めて思い返した。視界に広がる暗い森の先には、長らく彼らの同盟国だった国が待っている。たとえその民がどれほどの外道であろうとも、彼がやるべきことは彼らを罰することではなかった。


「待て、何者だ?貴様ら」


 前時代的な鎧を身に纏い、馬に跨る騎士が彼に声をかける。彼は、腰に取り付けたポーチをまずは見せ、そこに祖国の国章があることを示す。続けてポーチを開き、中から手帳を取り出した。


「イーゴリ・メレンチェヴィチ・アラーモヴナ。ムスコール大公国より派遣された、調停官です」


 騎士が突き付けた槍を下げる。イーゴリは浅い礼をし、「失礼」と断りを入れると、乗りなれない馬車に揺られながら、ブリュージュの市門に向かっていった。



 折れて焼け落ちた教会の尖塔には、べったりと血糊がこびりついていた。敵地で埋葬された若者たちの遺品には、故郷に残した家族や思い人の写真が残されている。ブリュージュを守るプロアニア人は、祖国が望む答えを引き出そうと目論み、こうした遺品を一つ残らず祖国に送らずにおいたのである。

 イーゴリはあちこちが割れた石畳の上を、注意深く進みながら、遺品の一つ一つを確かめる。豊作を願うカペラのブローチ、王国軍の鉄兜、剥がれた煉瓦の下に浸み込んだ血のにおい。被害者の銃創にはいまだに生々しい鉛の玉が取り残されており、地面には獣に引きちぎられたような軍服もずらりと並んでいる。彼が耐えかねて視線を逸らすと、今度は怯えるブリュージュの市民たちと視線が合った。彼らは酷くやつれており、真っ赤に充血した目をなおも大きく見開いてこちらを睨んでいる。

 いよいよ目のやり場に困ったイーゴリは、倒壊した建物や、市壁のあちこちにある痕跡に意識を逸らした。


 無数に穴の開いた壁は、プロアニア人が発砲した痕である。大砲によってぽきりと折られた尖塔も、彼らの野蛮さをよく示しているようであった。そうかと思えば、石畳が盛り上がった魔術の跡は、多くの無辜の市民を巻き込んだ痕跡が残っている。衣服の切れ端、超自然的な方法による地下からの間欠泉の跡などが、カペル王国の仕業であるならば、その非人道性はなおもプロアニア軍の戦闘の痕跡に劣らない。町を包み込む異様な緊張感は、イーゴリの決断を益々鈍らせた。


「君たち、何者かが憎いか?」


 近くを通りかかったプロアニア兵に尋ねる。兵士はよく訓練されたらしく、お手本のような敬礼を返すと、はきはきとした声で答えた。


「はい!我々は何者をも憎みません!ただ飢えと渇きを憎むのみです!」


「仲間を殺されたことについては?」


 イーゴリは屈みこみ、遺品の一つ一つを眺める。彼は調停官として、これらから目を逸らすわけにはいかないことを知っていた。


「憎しみよりは、彼らの栄誉を讃えたいと考えております!」


「正気か……?」


 イーゴリの独り言は、幸い彼には届かなかった。イーゴリは立ち上がると、兵士に報酬代わりの煙草を二本渡す。彼は威勢よく礼を言うと、そのまま警備へと戻っていった。


 立ち上がった頭上には六角形の鐘楼がある。大市場の目印であるそれの前には、人々の心を慰める教会がある。いずれにも、痛ましい弾痕が残っていた。


 やがて、彼の視線がゆっくりと、目的の建物を捉える。二人のプロアニア兵に入り口を守られた、絢爛豪華な建造物である。彼はその建物へと続く破壊された道を進む。間欠泉の噴出した跡、雷の落ちた跡があちこちに残っている。

 焦げた弾薬の嫌なにおいが一歩進むごとに濃くなっていく。彼が扉を守る兵士の前に立つと、彼らは敬礼をしてイーゴリを出迎えた。彼は無防備な敬礼の間を、腰を低くして通り抜ける。そして、目の前に広がる光景に、思わず息を呑んだ。


 高価な絵画や彫刻、調度品は見事に全て回収され、その代わりにプロアニアの庶民が使うような簡素な家具が置かれている。

 近くにあった部屋を開けると、轡を嵌められたブリュージュの高官や魔術師たちが一斉にこちらを振り向いた。彼らは目の前の人物がプロアニア兵の仏頂面でないことに安堵して、筆談用の道具を、調停官に向けて見せた。


「ようこそ、ブリュージュへ。この町は表情筋が凍り付いた人々に占拠されました」


 轡を苦しそうに咥えた歯が乾ききっており、真っ赤な目だけが不気味に拡大している。イーゴリは轡を外してやろうと膝をついたが、背後で小銃の安全装置が外れる音が響いたため、しばらくそのままの姿勢で固まり、静かに姿勢を直した。


 安全装置が再びかけられる音がする。


「先程、プロアニアの一般兵と会話をしましたよ。貴方達を憎んではいないと。そして、彼らが憎むのは飢えと渇きだと」


 イーゴリの言葉に、轡の男は眉間にしわを寄せる。轡を噛み砕きそうな剣幕に、彼は思わず後ずさった。


 何とか怒りを抑えたらしい男が、ペンを走らせる。イーゴリはおののきながら、荒々しい筆運びで書かれた崩れた文字を読む。


「表情筋が退化しているんだ。信じられないことに、奴らには人の心がないのだよ!」


 イーゴリは、兵士の貼り付けたような無表情を思い出す。安全装置を外す音が背後で聞こえた時の、背筋の凍るような感覚が、再び湧き上がってきた。


「貴重なご意見を有難うございます。このことは、しっかりと祖国に電報で伝えておきます」


 轡の男が怪訝そうに眉を持ち上げる。


「報告書に書き込む、という意味です」


 イーゴリの言葉に、男は深く頭を下げて応えた。


評価をするにはログインしてください。
ブックマークに追加
ブックマーク機能を使うにはログインしてください。
― 新着の感想 ―
このエピソードに感想はまだ書かれていません。
感想一覧
+注意+

特に記載なき場合、掲載されている作品はすべてフィクションであり実在の人物・団体等とは一切関係ありません。
特に記載なき場合、掲載されている作品の著作権は作者にあります(一部作品除く)。
作者以外の方による作品の引用を超える無断転載は禁止しており、行った場合、著作権法の違反となります。

この作品はリンクフリーです。ご自由にリンク(紹介)してください。
この作品はスマートフォン対応です。スマートフォンかパソコンかを自動で判別し、適切なページを表示します。

↑ページトップへ