‐‐1907年夏の第二月第四週、プロアニア王国、ゲンテンブルク‐‐
ペアリスの農民たちが反乱を起こした一件は、新聞の二面に静かに掲載された。そこには、彼らが直面する諸問題に関することは書かれていなかった。
アムンゼンは民間各紙の紙面を読み終えると、静かに車窓に流れる光景を眺めた。
降り注ぐ煤煙の中に、電気利用が始まった工場が幾つか新設されている。二世紀近い間変わらずに続けられた営みも、静かに変化が訪れていた。
子供の手を引く親が、袋に入れた配給品を運んでいく。その中には、ペアリスで収穫された食料もあることだろう。
「アムンゼン閣下、国民は幸福そうですな」
シルバーの車両のハンドルを握るエーリッチ・シュミットが明るい口調で言う。海軍の仕事はすっかりなくなっていたが、訓練だけは続けられている点に、彼らしさがあった。
「えぇ。我々の正義が守られたお陰です」
アムンゼンは猫背のままで粛々と答える。エーリッチは歯を見せて快活に笑った。
町の光景の中に、電信柱が混ざる。電飾の明かりも白くなり、ゲンテンブルクの街並みは以前より明るくなっていた。
職場へ向かう人混みの中に、痛ましい負傷兵の物乞いの姿が混ざっている。運転手は車窓を横切る光景には注意を向けず、ただ前方をしっかりと見つめていた。
霧の中を照らすヘッドライトが、車道のコンクリートを照らしている。日に日に狭くなる宮殿への道を、エーリッチはアクセルを踏み込んで進んでいく。
アムンゼンは、この実直な男に対して、豊かなる飢饉の話をするべきか逡巡していた。何せ、あのラルフの部下である。プロアニアでは歓迎されない、独特な倫理観を持つ人物であることは疑いない。そうした彼が、『カペル王国での貧困問題』に特別の同情を抱いたとしたら、それは恐ろしいことである。
逡巡が終わらないうちに、霧の中からバラックの宮殿が現れる。変わりなく、景色に溶け込むその宮殿へと、シルバーの車両が入城していく。
宮殿に入れば、アムンゼンとエーリッチはすぐに別々の方向を向かう。アムンゼンは諸々の国内問題について、特に、ペアリスで起こっている豊かなる飢饉の問題について、国王と直接の会合へと赴く。一方、エーリッチは、戦陣訓の転写と、各地への巡回、訓練の視察へと向かう。
アムンゼンは上級会議室へと向かう途中、科学相のフリッツ・フランシウムとすれ違った。
「フランシウム閣下、おはようございます」
「宰相閣下、おはようございます」
簡素な挨拶を交わし、ラルフは会議室への道を眺める。
「やはり、あのことですか?」
「えぇ。陛下と話し合う必要がありますので」
アムンゼンはそう答えて、足早に通り過ぎていく。丸い背中をみつめながら、フリッツは来た道を見つめる。燃料費のことを考慮して新たに取り換えられた電球は、目を凝らしたくなるほど明るい。
彼はアムンゼンの背中を見届けると、自身の執務室に戻るために、踵を返した。
上級会議室に向かう足取りの重さが、先程の自分と重なる。『原子力研究の専門機関を半年以内に作るように』と強引に詰め寄られ、彼の背中も丸くなっていた。
諸々の政府研究機関があり、危険性の大きくない場所の選定さえ許されない拙速さである。フリッツは逆らえない自分の不甲斐なさに胃を摩り、再び背中を丸めて短い歩幅で歩いた。
(研究所をつくるにしても、その安全性が担保できない以上、近隣に都市のないことが望ましい。被害も、村落程度なら隠匿も可能だ。森林の半ばに建てるとなると、整地の資金繰りも厳しくなる。首都からさほど遠くはない、ちょうどよい村落を選定するとして……。折角ならば研究だけでなく実用も、と考えると、今は丁度電力資源に注目が集まっている。発電事業を盛り込むというのも……)
無理強いの命令を受けて、彼の思案がそれで一杯になる。実際、化石燃料による発電装置の改良と並行して、原子力研究の一助となるならば効率も良い。彼は可能性の一つとしてこの施設の建設を進める方向で、長い邸内の散歩を続けた。
アムンゼンと別れ、まずはトレーニングを始めたエーリッチも、彼の長い散歩の物憂げな様子を窓越しに見つけた。硬質のマットの上には、汗が顎を伝って滴り落ちる。負荷を掛けに掛けた鍛錬で荒い息遣いの彼は、その病み沈んだ表情を見かねて、扉越しに大声を張り上げた。
「おはようございます!フランシウム閣下!」
向こう側の男は、不意に声を掛けられ、周囲をきょろきょろと見回す。エーリッチは片手で飛びあがるように肉体を起こし、シャツが汗にまみれたそのままで、扉を開け放った。
三歩歩く以上は当然に走っている。フリッツは当然に怯えた表情をしていた。
「お、おはようございます。シュミット殿。え、えーっと、何かご入用でしたか?」
「いえ、フランシウム閣下が思いつめておられるご様子でしたので!」
にこやかな笑顔である。あまりに屈託のない笑顔なので、フランシウムも正視が出来ない。目のやり場に困った彼は、視線を泳がせて苦笑する。
「お気遣いありがとうございます。では、これにて……」
ところが、笑顔のエーリッチは、フランシウムの白衣を強引に引っ張る。あまりの剛腕に、掴まれた箇所が青痣になるのではないかというほどの激痛が走る。顔を顰めるフランシウムに向けて、屈託のない笑顔が向けられる。
「一緒に汗を流しましょう!リフレッシュすれば、きっといい案も浮かぶはずです!」
(アムンゼンと言い、エーリッチと言い、これだから軍人と言うやつは!)
人の話を聞かない男のことは、どんな人柄であれ、彼の苦手とする人種である。剛腕に引きずり込まれた彼は、マットの上で柔軟体操を施され、階下に響くほどの悲鳴を上げた。