‐‐1907年、春の第一月第四週、エストーラ、ノースタット4‐‐
ダンドロ商会が経営するダンドロ銀行が、世界各地に支店を置く大企業であることは良く知られている。カペル王国ならばアビス支店を拠点として、首都ペアリスに至るまで、ムスコール大公国では首都サンクト・ムスコールブルク支店を拠点として、東端のウラジーミルにまで、強い影響力を持つ。こうした財界のエリートが、エストーラの海軍大臣と言うわけである。この世界規模のネットワークを駆使して、エストーラ帝国が有する経済界への強い影響力を支えている。
そしてそれは、海軍大臣である彼が、帝都ノースタットの市参事会にも少なからぬ影響力を持つことを意味している。
市参事会には古い集会場が利用される。帝国の国章である犬鷲の旗を中心に、ノースタットの旧ギルド、即ち大中小様々な同業者組合の代表者たちの旗が飾られる。国章に最も近いのは同都市にある司教座教会が公式に利用する紋章であり、ノースタットであればカプッチョ・サルコファガス教会のものである。
この場にベリザリオの姿はない。彼はノースタットの市参事会員ではなく、ウネッザの元総督であり、その地の参事会員の一人に過ぎないのである。
石工組合の旗の下に、髭面の男が座る。その隣には木工組合が、と、続々と職人組合の代表者たちが末席を埋めていく。上座には聖職者、金融業者、織物商人と続き、その末席に古物商が座った。
各人が持ち場に着くと、議長がトーガの裾を床に引きずりながら入室する。基本法改正草案に関する各種の資料を右腕に抱え、先ずは国章に向けて敬礼をする。それを終えると、議長席に着き、貴重な羊皮紙を広げた。
議題は各種様々に及ぶ。第一に市参事会の予算報告、次に参事会員の信任投票、それを受けて、新参事会員による挨拶が続く。挨拶や投票と言っても、顔触れが変わることは無い。それは儀式のようなものであり、4年に一度恒例の、事務的なものである。
会議は続き、議題が挙げられては承認されていく。やがて、皇帝から依頼のあった「基本法草案へ対する賛否投票」が議題に乗る。
「議題について、何かご意見はございますか」
疎らに挙手がある。議長は順番を指名して、彼らに発言を許した。
「今後、コボルト奴隷に任せていた仕事についてはどうなるのでしょうか。既存の労働者と同じ扱いとなる、という認識で、間違いないでしょうか」
議長は丸眼鏡を持ち上げて、質問表に目を凝らす。
「えぇー、そのような認識で問題ないそうです」
「これまで、貴族とされていた領主や諸侯、および聖職者については、コボルト達と同様の扱いとなるのでしょうか」
「法的な取り扱いとしては同様となります。奴隷とされた方は自然人として人格を与えられ、諸々の権利を与えられます。そして、有力者であった方々も、これまでの特権は撤廃され、彼らへ対する取扱いについては人格を持つ個人として、尊重することとなります」
「人格を持つ存在へ対する権利の保障について、異論を唱えるのではないのですが、例えばこれまで権利を有さなかった人々へ対する暴力や違法な行為とされるような行為をしてきた場合には、それを理由に刑罰を受けることはあるのでしょうか」
「えー。基本法の改正にあたって、遡及処罰を肯定することはありません。違法行為者は、人権を認められた後に行われた違法行為に対する責任のみを負います。また、施行までの猶予期間を設けますので、公布後即座に違法を認めるようなことはありません」
僅かな時間の沈黙。議長は左右を見回し、「よろしいでしょうか」と意見のないことを確かめる。
その時、カプッチョ・サルコファガス教会の司教が挙手をした。
議長は司教を指名する。彼の手元には、それに関する回答はない。
硬直する議長に対し、司教は苦笑を交じりに伝えた。
「いや、質問ではないのですけれど。少々、お時間を頂ければ」
議長は質問用紙を下ろす。司教は祈りの仕草を手早く済ませると、議場に集まった参事会員を見回した。
「帝国と教会の歴史は長く、これまでに聖俗共に利権を争って競いあって参りました。その醜さを棚上げにするようなことは、ここでは致しません」
儀礼用の錫杖を右手に持ち替え、旧カペル王国の聖職者がするように、滑らかに錫杖の縁を撫でる。何も起こらない。
「私達はあくまでも、古い教えを継承してきた教会です。このように、奇跡の起きようはずもない儀式、その所作を継承して参りました。それ程に、私達の今は古いのです」
「先帝の頃に、聖典派が力をつけてきたときに、私達のような聖職者は暴動と失脚に怯えていました。今の陛下が寛容であったために、祈りの場を守ってこられたことは、まさしく幸運と言ってよいでしょう。皆様はどうですか?ヘルムート陛下のことをどう思われますか?」
「陛下の御姿を傍で拝見して、古い争いに終止符を打つ時が来たのだと、私はそう思いました。私達は確かに古い。古いが、産声を上げた新しいものを憎むのではなく、今は、ただ、愛そうと。古い私を愛し、新たに生まれていくものを愛そうと。今はそう思うのです」
末席から、議長席まで。その大きな隔たりを渡るような、滔々とした語りであった。陛下に凶刃を振るって、『殺人未遂の罪』で処罰された経歴を持つパン焼き職人のギルドマスターが涙を流す。織物商ギルドのギルドマスターが、退屈そうな顔で司教の錫杖を見つめている。
司教は錫杖を仕舞い、席に着いた。
「……よろしいでしょうか。決をとります」
ノースタット市参事会は、賛成59、反対41で、基本法の改正に承認の意向を示した。
ノースタットを含めた賛成多数の都市で、ベリザリオが手を回したとの噂が俄かに囁かれている。しかし、その真偽は、公布されて以降も、結局は分からないままであった。