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鉄塔のアエネイス  作者: 民間人。
1907年
265/361

‐‐1907年春の第一月第四週、エストーラ、ノースタット3‐‐

 エストーラの夜は劇的ではなかったが、緩やかに復活を遂げていた。戦後二年のうちに、疫病記念柱にくべられた薪は炎を湛えて待ち人たちを集め、環状道路沿いの宝飾品店は恋人たちが甘い品定めを楽しむまでに回復している。


 空模様は晴れ渡り星々も明るく、空を渡る月光もしみじみと優雅さを感じさせる。近衛兵が環状道路沿いを巡回しながら、野良犬の尻尾や、まったりと道に居座る猫を優しく追い払っている。のどかさと優美さが混ざり合うこの道路沿いに、深夜まで経営している一軒の酒場があった。


「いやー、アインファクス様からお誘いいただけるなんて、どういう風の吹き回しですか?」


 既に出来上がったフッサレルは、素面のアインファクスの肩に手を回す。道を急ぐアインファクスは、じっとりとした目つきで彼を睨み、思いのほか体重をかける旧友の手を鬱陶しそうに叩いた。


「今日はベリザリオ様と話がしたいというのが本音です。貴方とはいつでも話せますからね」

「そんなこと言わずとも、ねぇー?」


 つれない様子の旧友の頬に親指を立てる。昼間の会食に賛同したことを多少後悔しつつも、旧友を半ば引き摺るような形で先導し、ごく庶民的な酒場へと入った。


 剥き出しのレンガ造りの壁は、外壁と同じ色合いで、灯りもシャンデリアではない。床は磨かれてこそいるが、点々と、料理を零した染みがある。

 貸し切り用の個室はなく、階上は雑魚寝の宿となっている。これはカペル王国式の宿で、特に行軍中の兵士の宿や、巡礼旅行で庶民が使うような宿である。エストーラ人は個室を好むので、行商人用の宿だろう。また、環状道路沿いと言うことは、旧市壁に隣接しているので、高貴な身分のためのものでもない。フッサレルとアインファクスが肩を並べて来店すると、威勢のいい「いらっしゃい」の声が喧騒の中から響く。

大衆酒場の中央右寄りの席に、ベリザリオがつまらなさそうな顔をして、木製のコップの縁をなぞって待っていた。


「待ちくたびれましたよ」


 実のところ、彼が来て5分と経っていない。同情を誘うような口ぶりで、相手の心持ちをうかがっているに過ぎない。


「申し訳ありません」


 アインファクスはごく簡潔に答え、席に着く。悪びれる様子もなく、ベリザリオは普段通りの含み笑いをしながら「いえいえ」と応じた。


「しかし、お昼にあの素晴らしい料理を頂いて、ディナーがこれとは、倒錯そのものではないですか」


 野卑な笑い声が彼の真後ろで響く。椅子の背もたれにもたれ掛かり、大笑する俗人のそれである。

 彼は眉間に皺を寄せて、鼻を摘まむ。浴びるように飲んだアルコールの臭いが、男の口から零れていたのだ。


「いやいや、ベリザリオ様。大衆食堂とは開かれた酒場。腹を割って話そう、と言うことでしょうよ、ね?」


 フッサレルは浮かれ気味に答える。彼の口元からも、僅かにアルコールの臭いが漂う。落ち着き払ったアインファクスも小さく頷いた。


「……そういうものですか」


 晩酌のメニューは安いワインと、それに合う安いチーズ、そして浮かれたフッサレルの提案で注文したエール、茹でただけのエンドウ豆である。ベリザリオはワインのラベルをまじまじと見つめつつ、小さくため息を零した。


「頂きましょうか」


 乾杯の後、彼は安酒を一口飲む。難しい表情をして口の中で転がした後、やはり一つため息を吐いた。


「貴族であらせられるアインファクス様とフッサレル様が、こうしたお店を見知っておられることにも驚きですが、時の観光大臣がお店によく馴染んでいるのも、意外なところですね」


 フッサレルは隣席にも声をかけ、エンドウ豆とソラマメを交換している。彼は装いこそ貴族そのものだが、周りも気を許していろいろなつまみを勧めたり、或いは奢らせたりしている。


「若いころのフッサレル様は、割とああいった具合でしたよ」


 アインファクスはしみじみと答えた。酒でワイシャツを汚されても、フッサレルは特に気に留めない。新調すればいいだけの話である。


「プロアニア嫌いのお方ですから、優雅な趣味がおありなのかと思っていました」


「いえ、あれは元々ああいう感じです。文化に貴賤こそあれど、彼は色々な娯楽が好きなのですよ」


 隣席の大衆は最新のボードゲームの話題を始める。フッサレルは仕事詰めで見知らぬ名前のゲームについて、興味津々に耳を傾けた。

 アインファクスは、その喧騒を外から眺めていた。


「思えば、私も貴方も、随分と変わった廷臣のように思えますね」


「私は商人ですから、まぁ、多少珍しいでしょうが。アインファクス様のご趣味は貴族も嗜むものでしょう」


「確かに。庭いじりは実に貴族的な趣味ですね。家庭菜園と農地の巡回はどうですか」


 安酒のためか、アインファクスの顔も既に熱を帯び始めている。ベリザリオは赤くなった鼻先を見つめ、安酒を仰いだ。

 ピリッとした刺激が喉を通り過ぎる。臭いも彼にはややきつく感じた。


「あー、いや。研究者としては。特段珍しいこともないでしょう」


 安酒の刺激に思わず顔を顰める。彼は自然とつまみに手を伸ばす。


「手頃に腹を満たせるエンドウ豆とチーズは、味を考慮しなければ実に経済的ですね」


 ベリザリオは、彼特有の損得勘定が働いて、つまみにひたすら手を伸ばした。その様子を、普段より幾らか穏やかな表情をしたアインファクスが見つめる。流行の遊びに、高貴な人の声が混ざる。


「私とフッサレル様は懐かしむような多くの思い出を、陛下と共有しております。でも、貴方はそうではないでしょう。ベリザリオ様。陛下のご意思について、貴方はどう思われているのですか」


 向かいの男は手にしたチーズを口へと運ぶ。元を取るにはかなりの分量が必要なそれを短い咀嚼で飲み込むと、少し怪訝そうに眉を持ち上げたのち、普段通りの含み笑いで答えた。


「ウネッザという国は」


 滑らかに、それでいて猥雑に。


「蝙蝠の国と呼ばれていたそうですよ」


 事実を踏まえて、かつ皮肉を交えて。


「蝙蝠の住処は洞窟です。羽休めには、先の見えない洞窟も必要でしょう」


 時の海軍大臣は、含み笑いを浮かべて答えた。



‐‐1892年、夏の第三月第二週、エストーラ領ウネッザ、コンタリーニ家邸宅‐‐


「海軍大臣ですか?」


 うだるような暑さの日、高い湿度に蒸し風呂に入ったような最悪な気分の日であった。金襴のトーガで着飾った私は、応接用の客室で、世にも珍しい客人を迎えていた。


 昔は客人皇帝、今となっては善人皇帝、ヘルムート・フォン・エストーラ陛下その人である。高齢ではあられたがご身分に相応しい振る舞いの優雅さを備えており、応接室に掛けられた各種の風景画のどれもが似合う。私は彼の訪問に先駆けて、正面を寂れた風車小屋の絵に掛け替えたが、そのくすみ具合も陛下に掛かれば歴史ある古都の建物のよう。流行のエンパイア・スタイルも様になっておられる。


「そうです。先日亡くなられた先の海軍大臣きっての推薦です」


「とは言われましても、私は軍部とはまるで関わりがない。総督(ドージェ)としても任期は短く、経験が多いということもありませんよ」


 商会の仕事に、総督の仕事にと3年ほど追われたが、忙しなさに嫌気もさしていた。まして国家の運営に携われと言われて、喜んで招かれるほど若くもない。

 とは言え、その地位には甘美な響きがある。


「私の息子に取り次ぎましょう。そうすれば私も、ご相談に乗ることも出来ますよ」


 次男坊なら商会の仕事も心配ない。それに、そいつが欠けたところで、私の仕事も増えるわけではない。そう、部下に投げつければいい。


 両者にとって悪くない提案だとは思ったが、陛下は難しい表情をして、侍従長らしき人物に耳打ちをする。何を隠そう、その人がノア様であったが。

 侍従長は遺言書を開き、陛下の耳打ちに対して答える。陛下は眉を下ろして答えられた。


「申し訳ないが、それは出来ません。聞けばご子息は、遠洋交易に携わっているそうではないですか。商会の仕事もご多忙でしょうが、大臣が不在というのも好ましくありません」


「次男坊ならば常に家に居りますよ」


 あんまり醜いので、外に出すのも恥ずかしいのでね。


「それも出来ません。御遺言によれば、後任はやはり、部下でもあったコンタリーニ家のベリザリオが良いと」


 何をそんなに食い下がるのか。陛下は柔和な人と世間では言われているので、恐らく拒み続ければ引き下がるだろう。私は態度を改めて、不機嫌を前面に押し出しつつ、姿勢も崩した。


「何を唆されたのか知りませんがね。あの人が私を指名するなど、碌なことではないのですよ。失礼を承知で申し上げますが、海軍の仕事がよほど嫌だったに違いないのです」


 陛下の表情が曇る。悲し気に下げた眉を一層悲し気に下ろし、皺の寄った細い指を思い切り膝の上で握りこんだ。


 陛下の表情はともかくとして、侍従長の表情はうるさい。一言一句に至るまで、表情がころころと動き、今は怒りの表情のようだ。


 陛下は少し俯かれ、蜂蜜酒の中を覗かれる。ウネッザ特産のグラスが汗をかき、夏のぎらつく日差しに輝いていた。


「……そうかも知れませんね。私は君主として、至らないところが多い。彼に負担をかけていたこともあるでしょう。ですが、貴方をご指名なさったのは、帝国の繁栄に良い影響があると、先見の明があるのを高く評価されてのことでした」


「はぁ?あの人がですか?」


 先見の明と言うが、所詮は隙間事業に商会の息をかけるだけのことだ。商いに才があると言われれば嬉しい限りだが、軍隊のことなど知ったことではない。ウネッザの古式の海軍知識も、とっくに古い代物だろうに。


「そうです。貴方が手を伸ばした事業は、どれも成功している。自分は既存の事業を発展させられたが、触手を伸ばして成功した事業は少ないと。政情不安が続いた私の治世に、新たな風を吹き込んでくれると、期待しておられました」


 ふと、古い記憶が脳裏を過る。ダンドロ商会の会長を任されて、何十年経っただろうか。先の海軍大臣に半ば押し付けられる形で会長を任された。年若い私は大出世だと躍起になったが、就任してからは内輪揉めの嵐。順当にいけばダンドロ家当主がその役を任されるべきなので、余所者の私が気に食わないのも当然だ。

最後にはこちらが妥協をして、ダンドロ一族が主流の金融業や嗜好品・高級品の交易事業を、その他のこまごまとした事業が、会長である私の仕事となった。

『楔を打ち込む』ではないが、商会の会長としてそれなりの成果を上げようと足掻いた時期もある。あの面倒極まりない時間も、もしや当初の私の希望通り、期待されてのことだったか。

とはいえ、いやはや。


「商いならば結構。ですが私は軍人ではないのですよ」


 その言葉を受けて、何を思ったか、陛下は顔を持ち上げる。希望を抱いたのか、表情も少しだけ明るくなっている。


「私は、我が国の海軍は、軍人だけではいけないと思う」


 時が止まったようだった。

 ウネッザの狭い水路を、伝統の黒いゴンドラが流れていく。船頭が舟端に立ち、器用に櫂を漕いだ。

 長いトーガ姿の商人が船の上に荷物を置いて座っている。膨らんだ頭陀袋の中身は、証書や金銭の類だろうか。

 そして、風車小屋の中に佇むご老人がお二人。


「元々、海軍大臣の任命にはそういう思惑があったのです。我が国の海軍が担う役割は、内海の平穏を守ること、そして海商の力を最大限に引き出すことです。私はそう考え、彼もその意見を受け止めて、貴方を推薦して下さったのです。私はそれを尊重し、貴方と語り合って、相応しい方だと確信いたしました」


 正直、内心では嗤ってしまった。私は軍部には相応しくないでしょう。老人の戯言だと。そう言ってやるべきだったと思う。ただ、陛下があまりに真剣に語られるので、そう言うのも憚られた。


 ウネッザは蝙蝠の国。のらりくらりと鞍替えし、先の利益のためには味方も敵も選ばない。


「分かりました。あまりに不安は多いですが、謹んでお受けいたします」


 ここで退いては、大陸への商圏進出が阻まれるというもの。蝙蝠の国のベリザリオが、帝国の海路(ニッチ)を開いてみせましょう。

 恥ずかしげもなく言える年でもないですけれどもね。


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