‐‐1907年春の第一月第二週、エストーラ、ベルクート宮‐‐
エストーラ帝国の次なる課題は、今後の統治機構をどうするのか、ということでした。より具体的に申し上げますと、我が国にある基本法は、陛下の柔和なお人柄には似合わず、専制君主の時代から受け継がれてきたもので御座いました。君主が臣民に対して負う、基本法の改正をするにあたり、民法、刑法、民事手続法、刑事手続法、そして皇帝選挙法、さらに行政法の抜本的な法整備が必要不可欠なのです。
臣民の生活も戦前の水準までとはいかずとも、正常な状態を取り戻した今、ようやく本腰を入れて各種の改正を議論する段階に至ったのです。
閣僚全員と、各地の貴族を中心とした議員たちが、皇帝勅書の内容を決めるべく、宮殿の大会議場へと集います。プロアニア王国に居を構える、皇帝選挙権を有する者たちを含めた貴族を除いて、エストーラ公領、ハングリア王国領内のすべての代表者の席が埋まっておりました。それぞれの紋章を描いた旗の提げられた席に座る者たちの中には、当然ジュンジーヒードの領主である、ファストゥール家の当主の姿も御座いました。
各廷臣に恭しく挨拶をする貴族達の列に並ぶ彼は、陸軍大臣への挨拶だけを飛ばして座席に戻ってしまいます。久しぶりの大会議に彼らの募る話も花咲く中、私と陛下は入室を果たしました。
カプッチョ・サルコファガスの教会で祈りを捧げた直ぐのことです。
陛下の入室と共に、全ての領主たちが起立をし、玉座に向かって最敬礼をします。陛下は帝国の国章が描かれた旗に礼をし、玉座の前に立つと、左右の貴族達に深く頭を下げられます。聖オリエタスが見おろす千年要塞の鳥観図と向き合った陛下は、服の裾を揃えつつ、優雅に着座なさいました。
「本日は招集に応じて下さり、誠にありがとうございます。御着席ください」
陛下の柔和な声を受けて、各人が一斉に着席されます。
本日は、廷臣と異なり文字の読めない貴族の方にも配慮して、各地に派遣した竜騎兵から事前に勅書の内容を伝達した上で行われる会議でした。
エストーラ皇帝の一族は多言語を読み書きし、話し、全て操る一族でも御座いますから、悪意のある法改正の時には、その内容仔細を把握することを困難にするために、「令状」を各領主に送ることが殆どです。それだけに、陛下へ対する貴族達の姿勢も、賛否両論ありましょうが、各人真摯なもので御座いました。
「この度の会議は、今後の国政にかかわる大事な会議で御座います。それぞれ思惑も御座いましょうが、何卒、帝国の未来を考えて賛否のご意見を頂きたく存じます」
陛下のお言葉を受けて、一同は改めて襟を正しました。陛下はプロアニア王国領内の領主たちのために用意した空席を悲し気に見つめながら、粛々と続けられました。
「古くより、我が国を支え導いて来られました臣下の皆様には、感謝に堪えません。この度の災厄においても、帝国一丸となって危機に抗することが出来たのは、皆様のご協力あってこそです。ですから、先ずは長年の御功労に感謝を申し上げます。そして、この度の、帝国の新たな旅立ちに基づく、基本法の改正にあたりまして、皆様のご意見を頂きたく存じます。私が予定しております基本法の改正にあたっての方針は、以下のようでございます」
私は立ち上がり、大きな羊皮紙を書見台の上に広げます。巻物式の羊皮紙はごく短い文章で、陛下直筆の基本方針が記されておりました。
「ムスコール大公国の基本法に倣い、自衛平和・基本的人権の尊重・国民主権・象徴君主制を4本柱とし、私を含めた皇族は立法・行政・司法の全権と統帥権を放棄したいと考えております」
それは、最高権力者から提示されるものとしては、異様なものでした。既に伝令兵を通してその情報を受けていた領主一同も、受け止め切れずに互いに視線を交わし合います。陛下はお気持ちの一切を語り始めました。
「先ず、象徴君主性についてですが、これまでは皇帝選挙によって決められていた皇帝の権威を、今後も同様に決めるのかについては諸々意見があるかと存じます。ですが、これまで通りの権威ある者たちのみによる政治の実権の掌握は、どうしても格差を生む温床となるもので御座いました。そこで、皇帝選挙で決められるにせよ、そうでないにせよ、皇帝は国家の歴史的・文化的・臣民の統合の象徴であって、国政に関する権限を否定するもので御座います」
その後も、陛下はそれぞれの柱に関して、説明を加えていきます。曰く、基本的人権の尊重の意思は、これまで、コボルト奴隷のように、人として認められてこなかった「人種」が個人であることを認め、すべての個人が自由で平等な意思を持つ存在として尊重されるべきこと、国民主権の趣旨は、帝国の臣民が自由で平等な意思を持つ個人であることに鑑み、彼らの意思を国政に関わらせることで、広く帝国の発展に貢献する趣旨であること。
陛下のご意見を示した後でも、領主の中には首を傾げるものもありました。それでも、陛下の丁寧なご説明を最後まで聞く人々の姿がありました。
千年城塞の鳥観図には、山羊を市内へ運ぶコボルト達と、軍旗を掲げる竜騎兵の姿がございました。
そして、陛下は口を湿らせ、何度か躊躇った後、最後の項目について続けられました。
「最後に、自衛平和についてです。お恥ずかしながら、私が至らぬばかりに、この度の災厄から、帝国を守ることが出来ませんでした。私は平和を望んでおりますが、時に災厄は私達の願いに反して迫り来るということを、痛感致しました。この経験を通して、私は、戦力は保持するべきだと判断いたしました。しかしそれは、報復と侵略のためにあるべきではありません。全ての戦力は、私達の尊厳と文化を守るためにのみ存在するべきだと考えております。以上が、私の掲げたい基本法の4本柱で御座います」
僅かな静寂が訪れました。陛下は老体を労わり、一杯の水を飲みました。何度か咳き込んだ後、陛下は皺の寄った細い指を丸め、膝の上に置かれました。
領主の中から一人が挙手をしました。陛下は頷き、「ご意見を頂ければ幸いです」とその人物を指名しました。
ジェロニモ様が訝しみながら睨むのは、自分の故郷を統治する者の旗でした。
「陛下のご意見、興味深く拝聴いたしました。ですが、私には全く納得のいかぬご意見でした。皇帝選挙権がある以上、その権威が認めた皇帝は優れた人物であると言えます。一般の臣民は政治の素人でしょう。何故にそのような方々が、国政に参加するべきと考えるのでしょうか」
啄木鳥の紋章を描いた旗がはためきます。地方貴族達の暗い視線が、陛下へと向けられておりました。数多の御旗が、それが貴族達の総意であると訴えております。陛下はなで肩を縮こませ、上目遣いで啄木鳥紋を背負う男へお言葉を返しました。
「貴重なご意見を有難うございます。確かに、私たちは政治と軍事の専門家です。しかし、それはいつからなのでしょうか?元服した時は確かにそうであったようです。では生まれた時は?オリエタスが耕しカペラが紡いだときは?ヨシュアが光を満たした時は?」
「然り。さりとて、政治とは刹那的な感情の発露であってはなりません。私達はその為に政治を学び、帝王学を学んだのです。陛下とて、そうでしょう?」
私の脳裏には、先ずは拙い語学を、そして帝王学を、宮廷のマナーを、軍事学を、寝食を忘れて学ぶ陛下のお姿が浮かんでおりました。陛下のご尽力が実った末の成果を、この場で手放すのは余りにも惜しい。家臣の中の家臣であるべき私でさえも、彼の言葉には反論をしえなかったのです。
「確かに、学びました。しかし、臣民の幸福に適わぬ政治を、私は望みません。臣民の幸福のためであれば、私は喜んでこの地位を捨てます。臣民の中に、本当に才ある方は多数おられるでしょう」
陛下のお言葉を聞いても、ファストゥール家当主の佇まいは揺らぎません。身動ぎ一つせず、冷ややかで軽蔑するかのような鋭い目で睨みつけておられます。貴族達の一人さえ、陛下のお言葉に賛同する者は居りませんでした。
嫌な酸味が口の中に染み出します。長い、長い沈黙は、揺るぎない統治者の盾を構えた人々の確固たる団結によって守られております。
心配りの出来る陛下ですから、これ以上の追及は難しいでしょう。侍従長として長年勤めた私に、それが理解できない筈はありません。
陛下の眉が悲し気に下りていくのを、拳を握りただ眺めるしか出来ないでいたとき、閣僚の席から、大仰に椅子を引く音が響きました。
何事かという視線の先には、姿勢を崩したリウードルフ様がおりました。
「あーあー、嫌だ、嫌だ。金喰い虫の陸軍将共が、何事かを宣っておるわ」
面食らったのは我々家臣一同だけではございません。若く覇気のあるジェロニモ様にたじろぐほどには、リウードルフ様が気配りの出来る御仁であることは、この場に集まった貴族一同が同意することでしょうから。リウードルフ様は、視線を釘付けにするだけには飽き足らず、飼い犬に噛まれたような表情の人々の前で机に足を掛け、彼らに軽蔑の眼差しを向けました。
「大蔵卿として勤めてようく分かりましたが、本当に貴族というやつは金喰い虫で、しかも有事にはまっこと役に立ちません。大方自分可愛さに保身に走っているのでしょうが、その惨めさたるや、不愉快極まりない」
「リウードルフ様、名家中の名家であるホーストブリュック家の貴方が言える立場ではない筈だ」
冷ややかに睨むリウードルフ様へ向けられる、罵詈雑言の数々。その凄まじさたるや、彼に耐えられるとは到底思えない代物でした。
しかし、予想に反して、リウードルフ様はニヒルに笑って見せます。そして、ジェロニモ様の髪を掴み上げて、仰々しく目を見開きました。
「ファストゥール家の嫡男でありましたな。勘当されておると聞きましたが、直々にご意見を頂戴したく。あなた、今の軍政に貴族が必要とは考えられますか?」
「……各地に思惑の異なる小隊が分断されているようなもの。一つの目的を達成するには、一つの軍部に権力を集中させた方がやりやすいですね」
リウードルフ様はジェロニモ様の髪の毛を離すと、満足げな笑みを浮かべて、啄木鳥紋の前に立つ男を見つめました。
「だ、そうだ。今ならあなた達も、臣民に嫌われずに済みそうですがね」
リウードルフ様は脅迫めいたことを残し、足早に退席なされました。覇気を纏っていた貴族達は目を瞬かせて唖然とし、彼らの御旗はたちまちその覇気を失います。陛下も何かフォローをと懸命に語られますが、一同、手元に残った喪失感のために耳に入りません。
「誇り」を抱えた人々を、一蹴してしまう呆気ない言葉に、廷臣ですら開いた口が塞がらないのでした。
「と、と、とにかく。皆様、話を続けましょう。何かご質問は?」
私は慌てて陛下から進行の役を受け取りましたが、リウードルフ様のお言葉は、自らを千年城塞と自負してきた人々にとってあまりに堪え、彼らは私の言葉にも上の空で呆けておられました。
約束の時間を告げるベルの音が響き、領主たちは意気消沈したまま、賛否の決をとることとなりました。
「で、では、決をとりましょう。陛下の掲げられた基本法4本柱の草案に、反対の方は挙手をお願いいたします」
ちらほらと、挙手がされます。しかし、先程の猛烈な勢いはなく、ただしおらしく、背筋の曲がった人の挙手でした。
「では、賛成の方はいかがですか」
何とも言えないきまりの悪さを抱えながら、決議を急ぎます。はじめは手が挙がらず、やがて少しずつ、賛同の手が挙がりました。
何とも痛ましい、意気消沈した様子の挙手でしたが、それを憐れに思われた陛下が最も動揺しておられました。
「賛成は多数ですが、陛下」
「こ、このような脅迫のような決議は、流石に……」
陛下は私に視線を送ります。脱力感だけが漂う中で、閣僚席側の扉が僅かに開きます。扉越しに怯え切った表情を浮かべたリウードルフ様と目が合ってしまった私は、慌てて目を泳がせ、リウードルフ様も音を立てずに扉を閉ざします。
「その、祖国に必要とされていないのであれば、私はこの任を降りたい」
賛成票を投じた領主が恐る恐る声を上げます。
「私も、我が一門の誇りのためにも、役を降りるべきだと……」
「任務もないのに私達が胸を張って町を歩くことなど出来ません……」
すっかり肩を縮こめた領主から、更に声が上がりました。苦しい沈黙を守る陛下の横腹を、ジェロニモ様が突きます。陛下は暫く唸り声を上げ、やがて意を決して顔を上げられました。
「では、草案はこの方針で進めようと思います。何か異論や意見があれば、遠慮なくご意見を下さい」
領主たちは、自分の紋章が描かれた旗を静かに下ろし、陛下にそれを返してからその場を立ち去っていきました。