‐‐1907年、春の第一月第二週、ムスコール大公国、サンクト・ムスコールブルク‐‐
新兵器クライスネ・カーミの発射実験成功と、コボルト奴隷の収容所解体のニュースが伝えられると、首都に新聞売りが大量に繰り出していった。街角を照らすガス灯の下で、丸めた朝刊を片手に、売り込みを行う。直ぐに周囲に人が集まり、鞄一杯に詰められた新聞が次々と売れていく。キャスケットを被った子供達が空っぽの鞄を自慢げに揺らしながら嬉々として往来し、町には新聞を片手に持つ紳士淑女で溢れていた。
その日の空は青く澄んでおり、雪解けの季節に相応しい開花の香りも届く。街路の隅に寄せられた雪は日陰に山となって積まれ、通路は程よい湿り気で滑る者も少なかった。
コーヒーハウスにも老若男女問わず来店し、春の浮足立った雰囲気の中に、悲壮感と歓喜の感情が入り乱れていた。
普段着を着込んだアーニャは窓際の席でキャスケットの子供が低い身長を目いっぱいに伸ばして新聞紙を掲げ叫ぶ様を眺めつつ、コーヒーが来るのを待つ。人の往来も以前の様子を取り戻し、通行人も、あの耐え難い黒歴史についてようやく口を開けるようになっていた。
「収容所の解体と発射実験を同時にやるなんて中々経済的じゃないか」
「風化させてはいけない歴史だよ。俺は大反対だね」
若者たちの政治談合も、実験の成功だけではない。実験内容そのものについて語る彼らの意見を、アーニャも他人事とは思えずに聞き耳を立てた。
「じゃあどこかの都市に落とすのか?それとも実験しない?」
「どちらも極論だろうが。前みたいに平原で実験すればいいだけだろ」
(負の歴史として、残すべきだったのだろうな……)
落した角砂糖がコーヒーに溶けていく。波紋を作るコーヒーの中に、頬杖をつく彼女の顔が映った。
「兵器が揃ってしまった。そろそろアーニャ閣下が戦争を考える頃に違いない!」
「所詮は抑止力ですよ、そんなことは絶対にないです」
赤ら顔の老爺と目の細い老婆が語る。老婆は静かに温かい紅茶を啜り、短い息を零した。
「何事かが起こっては孫にも被害があろう。儂は不安でしょうがないぞ」
「その日暮らしの若者の未来の方が、私は不安ですかねぇ……」
老婆は戸口の窓を横目で見る。春の兆しに浮かれて遊び歩く青年たちが通り過ぎていく。老爺は不服そうな表情をしながらも、「まぁ……」と言葉を濁らせ、紅茶を仰いだ。
茶菓子が配膳されると、老爺と老婆の会話から熱が冷めていく。彼女たちの話題は目の前にある上等な菓子の味に関するものへと変わっていった。
「喉元過ぎれば熱さ忘れるとは言うが、我が国の人々は随分と平和ボケしてしまったようだな」
カウンター席に座る、疲れた男が肩を落とす。静かでやさぐれきった声音でぽつりと言葉を零すと、彼は手元の新聞紙を捲った。
「じきにデモが来るぞ。ユーリーの差し金だ……」
男が呟くのと同時に、市街地の方角からプラカードを掲げた人の群れが現れた。最早見慣れた光景だったが、鬼気迫る表情から顔を隠すように、アーニャは窓から顔を背けた。
宮殿の前へと行進していく足音は次第に大きくなり、そして徐々に遠ざかっていく。彼らの足音が過ぎていくと、コーヒーハウスに静かな囁き声が行き交った。
「平和兵器を持つことで抑止力になる……」
「歯止めの効かない戦争になったらどうする……」
「敵はこちらに攻めては来ない……」
各々の主張が静かに店内を満たしていく。張りつめた空気の中にあって、店員だけが普段通りの仕事をこなしていた。
(あぁ……これが……)
シリヴェストールを狂わせ、死地へと追いやった雁字搦めの国民性。一人の人間の尊厳を守るということが、どれほど困難で、どれほど危険なのかが肌越しに伝わってくる。
人間一人の意思と同じ意思を持つ人間は二人といない。そうである以上、あらゆる意見が耳に飛び込み、そしていずれもが正義を掲げている。まして、それが自分の家族や生活に関わる重大事件であれば、その声はより大きく、しかも感情の籠った声へと変化していく。
「頑として悪に対抗する、プロアニアと戦うことが正義だ」
カウンター席の男が呟く。老爺がお茶を啜り、小さく祈りを呟く。向かいの老婆は老眼鏡を掛け、芸能欄に向かって目を細めた。
語り合う若者たちは収容所について真剣に議論を続けている。
(この国には問題が山積みだ)
アーニャは飲み干したカップを片付け、会計を済ませる。アーニャの顔と変装を覚えた店員は急いでレジスターに向かい、両手を行儀よく揃えて組む。
「お会計を」
アーニャは分厚い長財布を取り出す。店員は小銭を受け取ると、彼女の手を包むように、丁寧にお釣りを渡した。
「いつも有難うございます」
デモ行進は城の門へ向かって消えていく。入退店を告げるドアのベルが、人知れず鳴り響いた。