‐‐1906年冬の第二月第四週、ムスコール大公国、サンクト・ムスコールブルク4‐‐
アーニャから見れば二回りは年の離れた議員たちが、こぞって宰相の発言に野次を入れる。本日の通常議会では、次期予算案の取り纏めに合わせて、方々の意見がぶつかり合っていた。
アーニャの提出した予算案は、軍事費と科学省の予算を大幅に引き上げたものである。ムスコール大公国では他国にも予算案を公表する以上、それはプロアニアが実力行使をしてきた際の強力な牽制となる。
しかし、戦争が不可避となった時、その準備が整っているムスコール大公国は、容赦のない苛烈な熱戦に転がり込むことも恐れていた。
堂々巡りの議論は時として相互に一定の合理性を持つ。隅の議席に座るユーリーの醒めた瞳は、アーニャではなくルキヤンに向けられていた。
「実際の戦力を持つということは、戦争に加担する意思を見せるということです!」
「悪意ある者が我々を侵略した時、対話が通じると思っているのですか!?」
「先ずは対話!外交による解決の道を諦めてはならない!」
「最終手段としての戦力の保持は、外交のカードを余分に持つということです。外交というならばそれこそ尊重するべき意見ではないか!」
代理人同士による激しいぶつかり合いである。両翼の与野党双方が、今にも殴り掛かりそうな形相で睨みあっている。前のめりの議論の間に挟まれて、議長はただ静粛にと叫ぶ。
ルキヤンの深い彫から覗く刃のような視線と、ユーリーの凍える冬のような鋭い視線とが交わる。その間に挟まれた憐れな無所属議員たちが持つ発言の権利は、両翼から放たれる怒号に揉み消されていく。
宰相として座るアーニャも、激しい極論の雨に晒されて入り込む余地がない。議場はさながら外から熱せられた鍋のようであり、中道派は無言を貫いた。
アーニャは自分と同じ席に着いていた頃のシリヴェストールの姿を思い出す。彼女から見たその後ろ姿は徐々に丸くなり、旋毛は薄くなり、白髪は増えていった。あの時矢面に立った彼が、この激しい毒矢の撃ち合いを受け止めて、どれ程苦痛を感じたのだろうか。
そして、今矢面に立つのは二人、顔の厚い極北人ルキヤンと、西方かぶれの優男ユーリー。双方は正反対の風貌ながら、内に秘めた刃は鋭く、意思は硬い。
(耐えられるんだろうか……?こんな……)
ふと、自分がかつて座った席を振り返る。彼女の後輩が激しい罵り合いを冷ややかに見守っている。
膝に置いた拳を強く握る。真冬だというのに滲んだ汗が指先まで纏わりつく。
(何か言わなければ。このまま混沌とした政治では、プロアニアの思うつぼだ)
彼女は顔を持ち上げる。ルキヤンの視線が一瞬彼女へ向かった。
ルキヤンは静かに頷き、ユーリーに視線を追われないうちに視線を戻した。
「このまま戦争になったら、だれが責任を負うんだ!」
野党議員の怒号が激しい議論の中から目立って彼女の耳に届く。アーニャは顔を上げ、可能な限りの大きな声で叫んだ。
「責任は私が取ります!」
議場が静まり返る。議長は目を丸くし、ルキヤンは腕を組んで俯く。ユーリーの凍てつく視線が彼女を貫いた。
「この場において、行政府の責任を担うのは私、宰相のアーニャ・チホミロフ・トルスタヤを置いて他にはいません!戦争の惨禍が忍び寄ろうとも、ムスコール大公国は頑として平和と正義の側に立ち、それを守るために武器を持ちましょう!」
アーニャは肩で息をする。与党議席から尊敬の眼差しが、野党議席から嫌悪の眼差しが向けられる。
ユーリーは静かに口角を持ち上げる。彼は大仰に手を持ち上げてみせると、アーニャに向けて飄々と語りだした。
「アーニャ閣下。貴方一人で人の命を担うのは余りに重いのではありませんか?国が担うというならば、戦禍の渦中に人を送り込むのも人のためですか?」
「話が飛躍している。戦争が起こらないように軍事力を持つという話だ」
ルキヤンが答える。ユーリーは首を横に振った。
「あなた方は何もわかっていない。人間が力を持った時、どれほど野蛮になるのかということを。正義が下す鉄槌の末路を見てもなお、同じことが言えるのですか?」
「それを振るったのはそちらだったはずだ。プロアニアという友人を庇っただろう」
「それを振るってコボルト奴隷を死地に追いやったのは一体全体誰でしたかね?」
諭すような穏やかな声に重ねて、左の議席から畳みかけるように意見が投げられる。右の議席からは激しい反論が迎え撃つ。再び混沌が訪れた議場に、アーニャの高い声が割り込んだ。
「議長!決議を!」
「強行採決」と野次が飛ばされる。議長は額に青筋を浮かべながら、「決議に移ります」と声を荒げた。
投票箱へ向けて作られた長蛇の列が、牛の歩くようにゆっくりと進む。翌年の予算の可否は、明日まで持ち越されることとなった。