‐‐1906年冬の第二月第四週、ムスコール大公国、サンクト・ムスコールブルク3‐‐
机の上を整理したばかりのアーニャは、額に浮いた汗を拭い、倒れ込むように席についた。片付いた机上に映る疲れた表情に、白い息が零れた。
疲弊して乱れた髪を治していると、再び扉が開かれる。
思わず身構えるアーニャに向けて、財布入りの上着が投げつけられる。上着はふわりと宙を浮かび、小銭をまき散らしながら彼女の足元に落下した。
気まずい沈黙が場を支配する。アーニャは顔を青ざめながら、困惑の表情でルキヤンを見つめた。
「ルキヤン様?いかがなさいました……?」
ルキヤンは静かに振り返り、扉を睨みつける。
「少し、君の行動に気になるところがあってね」
「気になる……と、言いますと?」
視線は扉を向いたままだが、筋肉質で身なりの大きいルキヤンの姿はそこに立つだけで威圧感を放つ。アーニャはか細い声で尋ねる。ユーリーの時にはあった警戒心も、唐突な行動に出たルキヤンには用意していない。
しかしルキヤンは、扉を暫く眺め、やがて安堵した様子でアーニャに近づいた。
「行ったようだな」
彼は上着を拾い、汚れを払う。アーニャは目を瞬かせてそれを見ていたが、漸く姿勢を戻した。
騒動で崩れた書類の山を、気だるげに整える。ルキヤンが上着を着なおし、その形が崩れていないことを確かめた。
「まぁ、実際に気掛かりなのは事実だが、ユーリーはああ言った男だよ」
室内はしんと静まり返っている。張りぼての書類の山を直したアーニャだったが、処理済みのものと未処理のものが混ざってしまったことに気づく。彼女が疲れた息を零すと、ルキヤンが書類の山を覗き込んだ。
「迷惑千万ですよ……全く」
アーニャは漸く書類の整理に戻る。ルキヤンは古い資料を取り上げてまじまじと見つめた。
アーニャは処理済み印鑑の捺印がされたものや、サインや賛否の欄に記載があるものを取り分けて処理済み資料のキャビネットに入れていく。こうした事務作業の手早さは、彼女が長年培ってきたキャリアの成果であった。
「新人だと初めから墓穴を掘るか、懐柔されるかしてしまうから、君を信任して良かった」
「え、ルキヤン様だったんですか?」
「あぁ。……そんな目で見ないでくれ」
彼はアーニャの非難を込めた視線に僅かに汗をかいている。彼の手に持つ資料は、公式資料としての歴代宰相のリストから、シリヴェストールを抹消するという提案に関するものであった。アーニャは人知れず反対に丸を打っており、その資料は匿名のものであった。
「アーニャ君は反対なのだね」
「えぇ。負の歴史を抹消するわけにはいきませんから」
ルキヤンは資料を下ろす。相手に聞こえないような小さな声で「そうだな……」と呟くと、開かれたキャビネットの中にそれを放り込んだ。
「しかし、いざ矢面に立ってみると、シリヴェストール閣下の心労も理解できないではありません」
アーニャは扉を一瞥する。そこにいない男の威圧を感じ、鳥肌が立った。
「君の急進的な施策はそれだけリスクでもある。平和を守るためのどのような努力も、戦争や独裁と結びつけることが出来るだろうからな。いつか相手も、利権団体を使って潰しに来るだろう。そうならないように、こちらも立ち回る必要がある」
ルキヤンは徐にポケットの中を探る。取り出した機器を、机の下からアーニャへと手渡した。
それは黒く長方形の機械のようであり、右側の角はマイクのように細かな穴が開いていた。
「武器は腹の中に抱え、外に向けて撃ち込むんだ」
アーニャはそれを机の下に装着する。長方形の機械は沈黙を守ったまま、向こう側の人々に事実を伝え始めた。
「エストーラの皇帝陛下に、今後ここで行われた件について情報を伝える。君も俺もユーリーも、この場所で下手なことが行えない。それは裏取引や脅迫へ対する強力な牽制になるはずだ」
ルキヤンは言い切ると、髭を撫でて視線を逸らす。扉の向こう側では物音一つせず、室内もしんと静まり返ってしまった。
沈黙の機械は無音を集め始める。室内の二名は互いに異なる作業を続けながら、各々が合意の所作を取った。
不在の仇敵を出し抜いたルキヤンは、漸く安堵したように表情を綻ばせる。
「そろそろ議会の時間だ。支度をしなくては」
彼はそれだけ呟くと、さっさとその場を立ち去ってしまう。残されたアーニャは付箋付きの資料を取り出し、慌ててページを捲り始めた。