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鉄塔のアエネイス  作者: 民間人。
1906年
254/361

‐‐1906年冬の第二月第四週、ムスコール大公国、サンクト・ムスコールブルク2‐‐

 彼女が執務室に到着するなり、ドアをノックされる。


(うわ、きた!)


 街路に出た際とは異なる鳥肌が立つ。ノックの後に畳みかけるような若い声が続く。


「おはようございます、ユーリーですよ、ユーリー」

「どうぞ」


 アーニャは即座に机に向き合い、今まさに執務をしていたかのように振舞う。ユーリーが薄ら笑いを浮かべてドアを開ける。


「あー、宰相は忙しいですからね」


 白々しく白い歯を見せて笑う。滑らかな光沢を放つ巻き毛を構いながら、ゆったりとした足の運びでアーニャに近づく。


「ところで……平和兵器の開発やミサイルの開発を進めるとのことですが、私は出来れば対話によって緊張状態を解決したいと思うのです」


 ユーリーは勧められていないにもかかわらず、手近にある椅子に腰かけた。彼は大仰に膝を持ち上げて足を組むと、細めた目をぎらつかせる。

 アーニャの背中に鋭い悪寒が走る。彼女はつとめて冷静に答えた。


「対話が可能ならば対話で済ませるべきです。ですが、それが可能でないと分かった時に、作り始めるのでは遅いのです」


 ユーリーは爪先を持ち上げては下ろし、人差し指を持ち上げては下ろす。試すようなぎらぎらとした目でアーニャを見定め、やがて首を横に振った。


「相互不理解を解消するためには、戦争の支度ではなく対話しかありません。その軍事費をプロアニアに支払えば、彼らも話を聞く気になりましょう?」


「国民の血税をプロアニアに使うことは出来ません。お帰り下さい」


 アーニャが耐えかねて立ち上がる。鬼の形相を向けられたユーリーは、視線を逸らし、落ち着き払った様子で立ち上がった。


「あー……。仕方ありませんね。嫌だ嫌だ」


 彼は手を後ろに回し、体をほぐし始める。アーニャの表情が僅かに緩むと、彼は鋭い目で睨み返した。


「我々は平和のためなら手段を選びませんからね?」


 空気がアーニャに重たくのしかかる。執務中を騙るために用意された書類の山が崩れ、机上に雪崩て広がっていく。温度を感じられない白く柔らかい肌が凍てつく外気となって彼女の体を強張らせた。冷酷な鋭い瞳が彼女を威圧し、艶やかな黄金の巻き毛が彼女を翻弄した。


 彼女は崩れ落ちた書類を直そうと、緊張に抗って動く。ぎこちなく不自然な動きを見おろしながら、ユーリーは口角を持ち上げた。


「弱い犬ほど良く吠えると言いますが、貴方は飼いならされた犬のようですね。落胆しました」


 彼は踵を返し、意図的に激しい足さばきで退室する。床伝いに振動が伝わるたびに、激しい動悸にかられた彼女の心臓を揺さぶった。

 やがて乱暴に扉を閉ざす衝撃が机を揺らすと、体裁を整えたばかりの書類が再び散乱する。


 静寂を取り戻した室内で、アーニャは崩れた書類を丁寧に拾い集めた。



 乱暴に閉ざした扉が壁伝いに激しい音を立てる。伏し目がちに思いつめたような表情を浮かべるユーリーは、内心『騙された』という落胆で一杯であった。


 互いに御しやすい人物を宰相に祭り上げるという計略は、相互共に牽制をし合える状況を作るということである。

 シリヴェストール統治下において、アーニャはどちらかと言えば平和路線の官僚であることは周知の所であった。プロアニアが力を付けた今、同国と敵対関係を維持することは、戦争の火種を南方の国境線に常に持つことである。これまで高みの見物が出来たのは、この国が導火線を南方に退け続けた成果であり、自国に戦争を持ち込まないためには、エストーラにプロアニアの刃を向けつつ、エストーラへの経済支援を続ける方法が良い。これはあくまでユーリーの考えだったが、アーニャであればその路線に関しては自分に協力してくれるであろうと期待できた。


 実態はこの通りである。熱戦を起こさないために、兵器を開発して睨みあいに持ち込む、旧式の安全保障体制である。プロアニアが話を聞かないことは分かっているのだから、万が一戦火が迫った時に自国にも被害が迫るこの体制は賢明とは思えなかった。


 沸々と沸き立つ怒りを抑え、涼しい笑顔を取り戻したユーリーは、今日の議会で追及する内容を確認しようと、控室へ向かう。


「ユーリーか」


 背中に声を受け、ユーリーの眉間に自然と皺が寄る。表情を整えながらゆっくりと振り返った彼は、宿敵ルキヤンに白い歯を見せて笑った。


「ルキヤンではないですか。宰相閣下にご用ですか?」


「いや、警告をしておこうかと思ってな」


「警告?閣下にですか?」


 ルキヤンは小さく頷く。予想外の味方に口を半分開けたユーリーは、内心訝しみつつ作り笑いを浮かべた。


「そうしてください。彼女の立ち回りには少々不安を覚えるところが多い」


 ユーリーが滑らかに片手を持ち上げる。彼はそのまま僅かに身を退け、ルキヤンに道を譲った。


「有難う」

「いーえー」


 ユーリーは去り際のルキヤンに一瞥をくれる。普段よりも彫りが深く見えるルキヤンの横顔を確かめると、彼は含み笑いを浮かべてそれを見送った。

 扉が閉ざされ、彼は静かにその扉に耳を付ける。中から荷物を投げる音がすると、彼は勝ち誇ったような笑みを浮かべたまま、静かにその場を立ち去った。


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