‐‐1906年冬の第二月第四週、ムスコール大公国、サンクト・ムスコールブルク‐‐
アーニャは早朝に、レフ行きつけのコーヒーハウスに向かい、舌が火傷しそうなほど熱いコーヒーと茶請けを注文する。中心街の様子が一望できる窓際の席は、確かに市井の状況を探るのに都合がよかった。
毎日のように繰り返されるデモ行進や、仕事の前にジョギングをする薄着の通行人、ムスコールブルクの特徴的な曇天の下で繰り返される日常生活の数々が、窓越しに俯瞰できる。
アーニャはレフに倣って、熱いコーヒーの入ったカップの縁をなぞり、ぼんやりと、道行く人の様子を眺めていた。
収容されたコボルト奴隷達へ対する苛酷な仕打ちに擁護の余地はないが、友人のレフが精神を破壊されたあの凍てつくタイガの地にあった現実は、今平和にジョギングをして通っていった者たちの手の内にあった。大福祉国家として名高い祖国は、ヒステリックな混乱と空虚な友人信仰によって穢されてしまった。
果たして誰を恨むべきだろうか?アーニャは漸くコーヒーを流し込む余裕を取り戻し、オレンジ色の光を映すカップを持ち上げた。
ざらり、入れすぎて溶け切らない砂糖が舌の上を掠めていく。乳頭が敏感に過剰な甘みを受け止めていき、喉へと流れていくと溶けて消えていった。
道をのんびりと歩く老夫婦が、柔和な表情で語り合っている。
「喉元過ぎれば熱さ忘れる、か」
アーニャは独り言ちると、手近にあった季刊誌を開いた。一面記事には、彼女の恨めしそうな顔が乗っている。どの場所を切り取れば、このような悪人面が取れるのだろう。報道官の撮影技術は、詐術でも用いているかのように鋭かった。
「おい、見たか?今日の一面」
彼女は耳を傍立てる。紙面の内側で、活字が躍っているのを眺めた。
「見たよ。トルスタヤ閣下、ミサイルの開発に乗り出したいんだってな」
「また戦争は勘弁だよー」
紙面に悪人面が乗る所以である。プロアニアと本気で対立するならば、敵の優位である無人での平和兵器の利用に対して報復を出来る体制が必須である。相手が外交上のカードを切れないように、こちらの手札を整える。それが一体、どうして戦争に繋がるのだろうか?
「俺たちの暮らしの方が大事だろ。若者に支援しろー」
一人がふざけた口調で言うと、周囲から乾いた笑いが起こる。窓越しに、市街地の方角からデモ行進をする人々の声が聞こえた。
遠い世界の話であった宰相下ろしの波が荒れ狂い、彼女に襲い掛かっている。彼女は季刊誌に顔を埋めながら、彼らが席を立つのを待った。
「やっぱり今回もダメそうだな」
「武器の製造合戦じゃあ、プロアニアには勝てないよ」
からからと笑う声が彼女にも届く。彼女は季刊誌を握る手を強めた。様々に解釈され、「戦争屋」の下準備に対する言説が聞こえてくる。彼女は耐え兼ねて乱雑に季刊誌を放り、レフと同じように金銭だけを置いて店を出た。
乾いた空気の中に、白い息が浮かぶ。先程温まったばかりの体から一気に鳥肌が立ち、分厚い曇天が頭上で渦を巻いている。
市街地の方角からデモ行進の声が響き、大小様々な戦争の影響を高らかに喧伝している。彼女はポケットに手を突っ込み、通勤路を歩み始めた。
かつて阿鼻叫喚が起こった証券取引所には、投資家たちが疎らに集い、顔を向かい合わせて挨拶をしている。プロアニア風の帽子代わりに毛皮の帽子を持ち上げた彼らは、不安定な時勢の読み方について語り合っている。
コーヒーハウスで聞いたような意見のほか、防衛のために必要な兵器を開発することへ肯定的な意見も耳に入る。昨日の資産の動向などに関する雑談もあった。
物腰柔らかな勝負師たちが集う証券取引所を通過し、そのまま宮殿にある国会議事堂へと向かう。赤い方形の立派な宮殿を横切る。
噴水に張った凍り付いた水が鏡のように輝いている。議員たちが集う議事堂前に到着すると、既に到着していたらしいユーリーがにこやかに手を振っていた。アーニャは苦笑いでそれに応じる。彼は意外なことに彼女に近づきはせず、巻き毛を構いながら議事堂へと入っていった。
彼女は内心安堵して、白い地面に埋まった足を持ち上げる。その時、彼女は背後に巨大な影があることに気づき、咄嗟に振り返った。
「あっ、ルキヤン様」
彼女は剥き出しの警戒心が解け、間抜けに口を開ける。与党党首のルキヤンは、濃い顔を顰めた。
「そんな怖い顔しないでくれ……。俺は不審者じゃないんだ」
「すいません」
ルキヤンとアーニャとの関係は長い。シリヴェストールが宰相の時代に既に党首であったルキヤンは、議員立法に関する打ち合わせなどでも顔を合わせていた。
ルキヤンは不服そうに顔を顰めながら、アーニャの横を通り過ぎていく。アーニャは急ぎ足で、横並びで歩いた。
「ユーリーから何か脅されていないか?」
「少し心当たりはありますが、今のところは何も……」
ルキヤンは「そうか……」とだけ答えた。気まずい雰囲気のまま議事堂内へと入り、警備員と挨拶を交わす。二人は上衣を脱ぐと、それぞれの支度をするために別れた。