‐‐1896年夏の第三月第一週、カペル王国、ペアリス2‐‐
アリエノールは謁見の間に訪れる人々の話を、殆ど上の空で聞いていた。刺繡の話をして彼女に取り入ろうとする貴婦人、宝飾品を王妃に見せる商人ギルドの組合長、陛下不在のうちに権威の『種を植えよう』とする年若い侯爵……。デフィネル家にとって彼女は厄介な置物に過ぎないのかもしれない。彼女の脳裏には、ずっとそのような思考が纏わり付いていた。
「おい、お前たち!汚い手で扉を叩くな!」
退屈な謁見の最中に、アリエノールは部屋の外の騒々しさに気づく。兵士たちの激しい怒号に、謁見中の貴婦人も鬱陶しそうに視線を扉に向けた。
「何事でしょうか」
「えぇ、少し見てきましょう」
アリエノール自身が立ち上がろうとする。近衛兵が、彼女は椅子に座るように伝えて、扉に向かって声を上げる。
「何事か!王妃殿下が気にかけておられるぞ!」
「小汚いのがやってきており、なかなか帰ろうとしないのです。いかがなさいましょうか?」
「まぁ、恐ろしい……陛下、きっと浅ましい輩ですよ」
目の前の婦人はおびえた風に言った。アリエノールは耳を澄ます。宮廷では聞いたことのない濁声で、やや訛った懇願の声が聞こえた。
彼女の脳裏にふと、故郷ナルボヌの様子が思い浮かぶ。城壁に守られた市内の人々は、ほんの半世紀前まで全員が畑仕事をしていた。彼らが力を持ってからも、農夫は相変わらず畑を耕しては市内の者たちに収穫物を分け与える。そして、アリエノールが畑の視察に行くと、一緒に畑仕事を手伝い、粗末な固いパンを水に浸して共に食べるのである。
実際、彼女には宮廷の暮らしよりはそちらのほうが合っていた。彼女は貴婦人に視線を向けると、腰を低くして頭を下げた。
「貴女とのお話は大変楽しかったわ。でも、御免なさいね。王妃としての大事な仕事が詰まっているようなのです」
貴婦人は暫く呆然と立ち尽くしていたが、頭を下げる王妃の姿に押されて、彼女のつむじを見上げながら答えた。
「……はぁ。では、また次の機会に」
「有難うございます」
貴婦人は首を傾げながらその場を後にする。扉が開き、入れ替わるように飛び込んできたのは、襤褸布を身に纏った貧しい家族であった。
「王妃様!王妃様!このような身なりで申し訳ございませぬ!」
「口を慎め!殿下はご多忙なのだ!」
兵士の怒号が響く。頭を床に擦り付けたままで、すすり泣く一家の肩がびくりと持ち上がった。
「およしなさい。先ずは話を聞こうではないか」
アリエノールは努めて威厳を維持したままで兵士を諫める。しかし、彼女の内心は、教会の司祭のような精神に燃えていた。
「王妃様、畏れながら申し上げまする。昨今の不作のせいで、我々には食べるものも御座いません。このままでは冬を越すことが出来ぬのです。どうかご慈悲を、お願い申し上げます」
「どういうことだ?納税には一年免除の特例があったはずだ」
土に汚れた節くれだった妻の指が祈るように重なる。涙を一杯に貯めた瞳からこぼれた雫が、肌を伝い、土色になって地面に落ちる。
「そのようなことは存じ上げません!私たちは、変わらず税を取り立てられております」
兵士たちにざわめきが起こる。王の徴税吏が身勝手な行動をとったのではないか、という囁きが聞こえ始めた。アリエノールは静かに家族を観察する。
この者たちがしたたかな乞食ではないかを確かめなければならない。服の裾の汚れ具合は、農夫特有の畑色をしている。日焼けして赤ら顔になった肌は、一日中を日向で過ごした者特有のものだ。当て布で何度も補修させたズボンは体に密着しており、いわゆる乞食の襤褸布を着重ねたものではない。靴は木製で、革製の靴から足先が見えるということもない。また、負傷の様子はなく、全身が汚れてこそいたが困窮の痕跡はむしろ最近のものである。
彼女は膝に手を置き、子供達に視線を送る。
「坊やたち。君たちは川遊びをするかしら?」
「今朝も魚を獲りました」
「手掴み?それとも罠を仕掛けて?」
今度は侍従たちからのざわめきが起こる。アリエノールに不気味なものを見るような視線が送られた。
「先ず罠を見て、それから手掴みで獲りました」
アリエノールの口元が緩む。彼女は子供に礼を言うと、姿勢を正して夫婦を見おろした。
「国庫の備蓄を一部村落に与えよう。貴方がたの耕地にカペラの祝福がありますように」
「……!有難うございます!有難うございます!」
一家は思い切り床に額を付けて感涙を零す。王妃は何度も頷き、彼らの気が済むまで、謁見の間を開放し続けた。
彼らが麦を持ち帰ると、アリエノールは間近にいた兵士に耳打ちをする。
「ここ10年の代理徴税人の名簿を確認しなさい。それと、公示人の行かなかった村落を調べておきなさい」
「……っは」
兵士は即座に返事をすると、広い謁見の間から速やかに退室する。アリエノールは夜通しで、彼が持ち寄った「一部に漏れのあるらしい」資料を順番に並べ替えながら確認作業を行った。