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鉄塔のアエネイス  作者: 民間人。
1906年
246/361

‐‐●1906年秋の第一月第一週、プロアニア王国、ソルテ2‐‐

「夕食?構わないが」


 鉄兜を医師の元へ運んだプロアニア兵が、怪訝そうな顔をして食事に応じる。夜の帳が落ち、ソルテの市民であれば食堂に集まって酒宴を開始している頃である。鉄兜は緊張のあまり強張った表情で兵士を見つめ、後ろでだらんともたれ掛かる半目の体重も手伝って腰を低くする。ワイシャツにスラックスという、仕事を丁度終えたばかりという服装をした兵士は、視線を鉄兜の上目遣いから、もたれ掛かる半目へと移した。


「お前も大変だな……」


 鉄兜は苦笑する。兵士は「支度をする」とだけ告げ、一度室内に退散した。


 鉄兜は鍵穴を覗き、兵士が完全に家へと戻ったのを確かめると、半目のでこを叩いた。顔を歪ませた半目は「いてっ」と声を漏らし、反抗的な顔を彼に向ける。


「重たいし、失礼だろうが」


「だって疲れたから」


「俺も一緒なんだが」


「いぇーい、お揃い」


 半目が目をとろんとさせたままハイタッチの仕草をする。鉄兜はじっとりとした目つきで半目を睨み、少し力を込めてでこを叩く。


「いった!」


 半目は大声を上げ、不服そうに鉄兜を睨む。既に扉の方に向き直っていた鉄兜の頭上に、持ち上げた手でチョップを食らわせた。鉄兜が鬼の形相で振り返る。半目はいたずらっぽく笑い、「手が滑った」とだけ答えた。


 やがて、ワイシャツの上に背広を着こみ、中折れ帽を被った兵士が扉を開く。


「待たせてすまなかった」


 言葉を繋げようとしたが、彼は目の前の光景に思わず口を噤んだ。

 半目が鉄兜の頬を引っ張り、鉄兜は半目の肩に置いた手に力を籠めて引き剥がそうとする。口々に汚い言葉で罵り合いながら、両者の靴が踏みあいによってぐっしょりと泥に汚れている。

 声に気づいた鉄兜が振り向くと、誤魔化すような笑みを浮かべて見せた。


「……行きましょうか」


 プロアニア兵が意外なほど礼儀正しく言うので、鉄兜も慌てて姿勢を正す。よれよれの襟元に気づいて慌てて直すと、その様子を見た兵士が小さく微笑む。彼は恥ずかしさを誤魔化すために、仮設の食堂へと向かった。カペル王国の市民たちは既に食事を終え、頭が働かないほど、浴びるほどに飲み、『出来上がっていた』。


 兵士は狭い宴会場での熱狂の中を、不愉快そうに睨みながら奥へと向かっていく。三人はカペル王国市民の視線を避けるようにしながら、建物の隅にある壁際の座席に座った。

 プロアニア兵にとっては、騒々しい食堂で最も静かなこの場所は、一種の憩いの場として機能していた。黙々とバランスの良い食事を摂るプロアニア人の間に、砕けた服装の半目と鉄兜が入り込み、席に着く。


 落ち着きなくきょろきょろと周囲を見回す半目には、プロアニア人の一心に食事に向かう姿と、変わらない表情が恐ろしいものに映った。人形が何か燃料を食べているかのような、肌の通っていない表情だったためだ。


 蠟燭の明かりで照らされた仄暗い建物の中にあって、ガスランプを中央のテーブルの上に提げた彼らの特等席は非常に明るく、また明かりが揺らぐ心配もなかった。

 二人は兵士と向き合う形で座り、メニュー表を覗き込む。両者とも彼らの文字は読めないので、兵士が何を見て何を考えているのかも、全く伝わってこない。


「えー、取り敢えずエール3人分。あと、酒のつまみも」


「かぶのスープと小麦のパン、あとベーコンとほうれん草のソテー。味は変えられるように調味料も下さい」


(こいつ、食事だけしに来てるな……)


 兵士はメニュー表を閉じると、胸元から紙煙草を取り出し、一服を始める。そして天井を仰ぎ見るようにしながら、煙を口の中で燻らせた。


「竣工したってなると、今度はどうなるんだろうな?俺そろそろ、畑仕事に戻りたいなぁ」


 半目は兵士のことは気にも留めず、鉄兜に向けて話しかける。会食の場をわざわざ設けた苦労を想いながら、鉄兜は適当に返答した。


 天井の一点をぼんやりと眺めていた兵士は、煙草を口から離す。口の中で溜め込んだ煙が、少しずつ歯の隙間から零れていく。


「いや……お前たちは鉄道の敷設だ。ペアリス・ソルテ間の敷設が遅れているからな」


 半目が不服そうに唇を尖らせる。兵士は再び煙草を口に運び、咥えながら立ち上がった。


 彼は書棚へと向かい、ソルテの市民にとっては異文化の読み物である、新聞を取り出す。そして足早に席に戻ると、黙ってそれを広げ、二人を視界の外に置いた。


「感じ悪……」


 沈黙を守っていた鉄兜が思わず口を滑らせる。零れてしまってから、占領者達からの報復を思って震え上がり、きょろきょろと周囲を見回す。しかし、誰も彼のことなど気にも留めず、食事をするか食事を待っている。

 終戦し、鉄兜が仕事を続ける中で、プロアニア人は彼に対して占領者らしい横暴を働かなかった。彼は自分の失言で意を決し、乾いた唇をエールで濡らした。


「……あのさぁ。お前たちは、どうして俺達と話さないんだ?何か不満があるのか?」


 新聞紙の隙間から、鉄仮面を付けたような無表情が覗き込む。


「食事の主たる目的は栄養の補給だ。補給した傍から使ってどうする」


「飯はみんなで食べたほうが楽しいだろ」


 半目は鉄兜に同意を求める。鉄兜もそれに相槌を打った。

 しかし、兵士は立ち昇る副流煙越しに、二人を睨むばかりであった。


「楽しいことは重要か?それがしたいならすればいいが、俺は別に重要でないと考える」


「……生きてて楽しいか?」

「おいっ……」


 半目は運ばれてくる料理を諸共自分の方に寄せながら、兵士と視線を交わす。とろんとした瞳を、暗く鋭い瞳が睨んでいる。


「食べないのか?」


「お前のこと知らないからまだ食べたくない」


 鉄兜は、深く重苦しい沈黙を感じた。誰一人見向きもせずに、静かに料理を口に運ぶ。重荷を背負って丸まったような背中を持つ人々が、ひと際明るい食堂の隅で、粛々と栄養を摂取する。

 睨みあいを続ける二人であったが、兵士は湯気の立つ料理を見つめ、難しそうな表情を浮かべた。


「生きていて、楽しいか、楽しくないかと聞かれたら……考えたこともない」


 彼は新聞を畳み、煙草を消すと、黒い灰皿の上でその火を揉み消す。暫く考えた後、彼は言葉を選びながら続けた。


「人間にとって必要なものは、食べること、飲むこと、種を存続させることだ。農業もそうだし漁業もそうだろう。それは国王や貴族でも例外ではない。生命活動の維持と、子孫を残すということだ。楽しいとか……そういう感覚については、その、あまり関心がない」


 彼は初めて人間らしい表情を零す。半目は笑顔になり、囲い込んでいた料理を相手の方に回す。


「じゃあ、俺達と楽しく飯を食おう。案外悪くないぞ」


 兵士は怪訝そうに眉を顰め、木製の食器を取り出した。塩を左手で器用に持ち上げると、その手で蓋を開け、食べ物という食べ物にかけ始めた。


「そんなにかけたら辛いだろ」


 鉄兜が慌てて塩を取り上げる。「あっ」と間抜けな声を上げると、彼は塩を手に取ったまま、誤魔化すように笑って食卓の隅に置いた。


「……こっちの料理は味が薄いんだ」


 背中を見せて食事を摂るプロアニア人達が首を縦に振る。鉄兜は唖然として兵士を見つめ、首を横に振った。


「塩辛いものばっかり食べてると、塩の過剰摂取になってやばいんだぞ」


「だが、味が無いともぞもぞと食べてペースが遅くなる。栄養の摂取は速度も重要だろう」


 互いに互いのことを呆れ顔で見つめ、同時に溜息を零す。彼は半分溶けた塩を器用に隅に寄せ、料理を手でつまんで食べた。


「手で……食べるのか?」


「え?」


 しばらく間をおいて、兵士は料理と向き合う。難しそうに口を手で覆い、眉間に皺を寄せながら料理を見ている。半目も指先で料理を拾い上げ、美味しそうに咀嚼する。


「辛い」


 舌をべっと出して笑う彼に、鉄兜も「だろ?」と声をかける。兵士は四つ折りにした新聞を食卓の隅に寄せ、やはりフォークを手に取って料理を掬い上げる。


 食材越しに、訝し気に二人の楽しげな表情を見つめる彼は、恐る恐る料理を口に運ぶ。舌の上で塩味があることを確かめ、ゆっくりと咀嚼した後、普段するようにそれを飲み込んだ。


「こんなものだろう」


 むしろ少し薄いくらいだと言いたい気持ちを抑え込み、自分のお陰で食べられる代物になった料理を口に運ぶ。そのペースは呼吸をするように速く、咀嚼も嚥下も、殆ど間髪入れずに行われている。


「えー?辛いよなぁ?」

「辛い辛い」


 二人は顔を見合わせて笑う。食事のペースはゆったりとして、酒で喉を焼くのも会話のついでと言った具合である。

 二人の表情が忙しく動く。眉を持ち上げたり、何か下世話な話をしてもめたり、眉を下ろしたり、顎を引いたり、額を持ち上げたり。目まぐるしく動く会話と表情は、兵士に眩暈を催しそうなほどに忙しく感じられた。

 エールの泡がグラスの上で踊り、プロアニア人が足早に食堂を去っていく中で、兵士は黙々と食事を摂りながら、二人の表情が動く様を注意深く観察した。


 実に無駄の多い行動だと感じたと同時に、胸の中にぽっかりと抜け落ちた隙間を埋めるような、じんわりとした温もりが体を満たし始める。人間の構造上の重要な栄養素ではないものが、体の奥底から襤褸布のような胸壁の中を、目に見えない気体が満たしていくのを感じた。


「今日は」


 唐突に零れた小さな声に、二人は同時に振り返る。玄関先でしていたような間抜けなポーズを取り、真っ赤に染まっている顔をきょとんとさせている。兵士は恥ずかしさのあまり、煙草を咥え、火を点けるために口元を覆った。


「俺が奢るよ」


「太っ腹ぁ!」


 半目が兵士の背中を強く叩く。兵士は苦しそうに小さく呻き、煙草の煙を思い切り吹き出す。鉄兜が慌てて兵士の背中を摩り、半目の頭を叩く。彼の背中の上で、妙な喧騒が再び巻き起こる。渦中にあってなお、頑なに煙草をふかす兵士は、背中に圧し掛かるような喧騒に呆れながら、胸の内に空いた隙間が煙で満ちていくのを感じていた。


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