‐‐●1906年夏の第三月第二週、プロアニア王国、ペアリス近郊‐‐
目の前には豊かなる大地 首を垂れる麦穂の実り
溢れる赤や青のベリー 恵み深きカペラの花冠
偉大なる大樹朽ちし後 彼の地の恵みは川を伝い
霧と煤煙に塗れて消える カペラは東に遂に微笑む
そこに救いのあるものか 女神は去る、遍く実りと共に
ペアリスの残党を殲滅した第二歩兵連隊長は、憂鬱な気持ちで報告書を作成していた。
大樹と共に倒壊し、王と運命を共にした花の都には、廃墟となった今も、蔓の伝った礼拝所や、幾つもの王宮が林立することで、豊かな文化の残り香が漂っている。窓を砕かれた大聖堂の薔薇窓も、悲し気に繁栄の伝承を歌っている。
ペアリス近郊部の開発は困難を極めていた。第一に件の大樹の折り重なった強固な根を焼き尽くし、撤去した跡地に食料補給用の囲い込み地を大急ぎで建て、そこにペアリス郊外に住む農民らを押し込んで労働を強要した。
労働の集団化と画一化においてプロアニアの右に出る国はない。その手腕をもってしても、カペル王国最高の魔術が周辺地域に齎した災禍には手をこまねいていた。
連隊長は最後まで連れ添った戦友たちと共に、首都の宮殿で事務作業をこなす。しょぼくれた目を瞬かせながら、今期の穀物の収穫高と睨みあいを続けていた。
かつてペアリス周辺にあった農場は使い物にならない。侘しい風が鉄道の敷設作業をする音を運んでくる。剥がれた城壁痕から覗くなだらかな丘陵地帯の中に、大樹の根に操縦室を占拠された戦車が放置されている。本来大穀倉地があった広大な平地は、草木ごと巻き取られ、ボロボロに土地を荒らされた荒野となっている。国家を守ることの代償があまりにも激しいので、連隊長は「亡命した方が効率的だ」とさえ感じていた。
この大いなる大地のうち、何とか整地をされた僅かな耕地に、ペアリス近郊で農業を営んでいた自営農や小作農は、プロアニア兵がゆったりと武器を構えて歩くのも気にせず、殆ど以前と変わらない生活を送っている。
彼らの生活は変わらないままだが、市民生活は全てが変貌している。蔓の伝った礼拝所に通う人は居なくなり、ペアリスの中心地からソルテへ向けてレールを敷く者、王の魔術を後始末する者、耕地の復活のための人手にされる者が、野宿をしながら仕事をする。
森林や草原にいる動物からは、プロアニア兵が不眠不休で守ってくれる。しかし、彼らは労働時間の閑居を許さないため、彼らに対して抵抗するものも少なくない。
連隊長の悩みは幾つもあったが、何よりもこの人口を支える食糧を捻出できないことであった。カペル王国の市民は、人口は多い代わりに労働に積極的ではなく、またよく食べるため、プロアニア兵側に我慢を強いる必要があった。そして、迅速にプロアニア本国へと食料を輸送する必要があり、それは生産量に関わらず徴収される。よって、目下冬を越すだけの食料はなく、特に彼の戦友に食料は行き渡らないだろう。大地は肥え実りも豊かだが、彼らの前に待つのは戦前同様の飢饉であった。
連隊長は顔を拭い、深い溜息を吐く。残暑による発汗で拭った手がしっとりと濡れる。彼は再び重い溜息を零し、木枠の窓を開けた。
温い風が城内へ通り抜けていく。首に出来たあせもを掻きながら、城下にある無人の住まいを見おろす。陽炎の揺れる城下には、剥がれた家の壁や、石畳の捲れた跡などが散見される。彼の戦友が銃を構えながら巡回し、時折路地裏を覗き込む。発砲音は珍しくなったが、未だカペル王国の残兵が町に潜んでいる。その緊張感が暑さと共に息苦しさを増大させる。
武器を手に持つ戦友たちに紛れて、生家の壁を剥がす被占領民がいる。手に持つ金槌とたがねを用い、器用に意思を削り出すと、それをトロッコの中へと放っていく。少しずつ削られる石材は、郊外の整地に利用されることだろう。
‐‐この場所に立って初めて、戦禍が齎した成果が分かる‐‐
不意に連隊長の瞳が潤む。西にある理想郷を目指した辛く厳しい旅は、その終着点で理想郷を壊してしまった。花と実りの楽園が荒野に消え、僅かな実りを家族の住む祖国へと送る。苦しみは終わることなく、不安だけが無尽蔵に湧き出してくる。
彼は何のために戦ったのだろう。祖国のために戦ったわけではない。祖国に流されるままに戦っているのは事実だが、最後にはもっと小さなものの為に戦っていたと思う。あの時、ブリュージュの令嬢が手に持つ刺激的な飲み物を求めた本能的な欲求が、彼をここまで運んできたのだ。
現実はどうだろうか。多くの無機質な出会いと無感動な別れを繰り返して手に入れたものとしては、あまりにも惨いではないか。
連隊長は首に提げた双眼鏡を覗き込む。市街地に残る大樹の残骸や、残骸によって作られた幾つかの穴、剥がれ落ちた住宅地の壁面、窓枠から垂れる蔓。何よりも機械的な弾痕と、倒壊した市壁の焦げた跡。破壊に破壊を繰り返してやっと手に入れた理想郷は、遂に破壊されたままで彼の手元に残された。
不意に扉が開く。ノックもなく無遠慮に開かれるときは、いつも彼の心は少し楽になった。
「マリー様……」
侵略者として出会い、戦友として共に歩んだブリュージュ伯爵夫人は、肩のはだけたドレスを優雅に揺らし、連隊長の隣に歩み寄った。
「悩み事ですか。聞きましょう」
温い風が吹き抜けていく。麦と堆肥の混ざったにおいが二人の間を吹き抜けていく。
「悩みではないのです。ただ、虚しさが……。何のために戦ってきたのかと」
「貴方がたがいなければ、貴方の祖国は餓死者で溢れていたことでしょう。確かに惨い仕打ちでしたが、守ることは生半可な覚悟では出来ません」
マリーはそっと連隊長に視線を送る。長い睫の隙間からは輝いた瞳が、良く通った鼻筋の下からはふっくらとした赤い唇が覗く。
「貴方の覚悟の方が、ずっと貴く強いのです。嘆くべきものではなく、誇るべきものです」
マリーは「さぁ」と続け、連隊長を仕事机に導く。彼は視線を泳がせて、重い唇を開くことも出来ずにそれに従う。
‐‐マリー様、違うのです。私は……‐‐
温い吐息が彼の耳元を撫でる。その日、彼の口が開くことは遂に無かった。