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鉄塔のアエネイス  作者: 民間人。
1906年
243/361

‐‐1906年夏の第三月第二週、エストーラ、ノースタット3‐‐

 ジェロニモとフッサレルが仲睦まじく歩く姿を見届けると、大蔵大臣リウードルフは廊下の角から顔を引っ込め、安堵の溜息を吐いた。

 かの沈着冷静な陸軍大臣が見せた非常な狼狽ぶりに、彼は酷く驚き、また混乱もしていた。ジェロニモとは、そうした感情で動くタイプの人間ではないのだ。

 平静を取り戻した彼の姿を確かめて、この小心者の大臣にも僅かな余裕が生まれる。その余裕に付け入るように、腹の虫が鳴った。


(陛下に気を遣ってあまり食べられていないからな……)


 彼はのんびりと構えながら食堂へ向かう。大規模で儀式的な食事が一時中止されて久しい食堂は、静寂そのものである。

 彼が扉を開けると、そこにはアインファクスが籠一杯の野菜を抱えて立っていた。


「アインファクス様ではないですか。小腹が空きましたか」


 リウードルフは席に着くと、今朝収穫したばかりであろう野菜を見た。

 鮮度の良い野菜がそのまま晒されているので、彼の腹の虫が無遠慮に返事をする。アインファクスは彼に一瞥をくれると、食材を置いて席についた。


「……失礼しました」


「いえいえ。鮮度の良い生野菜など、最近は食べられていませんねぇ」


 世間話のつもりでおどけてみせるリウードルフに対して、アインファクスは思いつめた様子で俯いた。


 食堂は各自が空き時間に食事をとりにくるので、今は二人きりとなっている。儀式的な宮廷式の食事が戻ってくれば、広い食堂もより生かせるようになるだろう。

 リウードルフは相手の顔色を窺う。現在、二人は職務上、それぞれ憂鬱を抱えるのに十分な事情がいくつもある。そのため、互いに思いつめた表情を浮かべる時に、それが相手のどの懸念事項についての表情か、気を配るのに苦労する。

 気まずい待ち時間を切り抜けるため、リウードルフは食事の注文をする。今回も何となく、彼の注文は皇帝に気を遣ったものとなった。


「リウードルフ様は、先程の一件について、どう思われますか?」


「ハングリアの件でしょうか。彼の地の独立は帝国弱体化を加速させる最も危険な提案です。財源としても、押さえておく必要がありましょう」


 リウードルフは喉を湿らせる程度に水を飲む。食堂は鍵もなく解放されているので、誰が聞くとも分からない。

 アインファクスは伏し目がちとなり、唸り声を上げた。視線の先にある野菜を、料理長が礼を言いながら回収をしていく。アインファクスは小さな会釈を返し、再び二人きりとなったところで尋ねた。


「例えばですが、ムスコール大公国で奴隷制度が廃絶された場合、その貴重な収入源も大きく削られることでしょう。その時に、彼の地を独立させて国庫の出費を改善させることで、収入の補填は出来ると思いますか?」


「うぅむ、それは難しいでしょう。労働資源も大きく削られるわけですし、支出も収入も大きく減るとはいえ、やはり財源の基本は消費活動ですよ」


 リウードルフには相手の慈悲の気持ちも分からないではなかった。しかし、独立を易々と認めるには、世界情勢はエストーラに厳しすぎることも事実である。

 そうした現実的な感覚については、むしろアインファクスは聡い人物である。彼もまた、自分の言葉を咀嚼しながら、きまりが悪そうに表情を曇らせた。


「今回も、皇帝陛下には辛い進言をしなければならないようですね」


 アインファクスは戦中の苦い記憶を思い出す。二人の前に宮廷で出されるものとは思えない質素な食事が配膳された。

 リウードルフは銀のスプーンを持ち上げ、麦粥を掬う。穀物が齎すとろみで、スプーンからはゆっくりと粥が滴る。

 彼は味の薄い粥を大切に咀嚼して飲み込む。エストーラの権勢を物語るような侘しさが喉を通り抜けた。


「アインファクス様、今後のためにも再び食糧の備蓄を進められるのですか。現在の食料事情は、私も把握しております」


 彼は長い極貧生活で気落ちした胃袋を労わるべく問いかける。アインファクスは自宅の庭園がある方角に遠い視線を送った。


「食物庫は底を突きましたが、陛下が数十年かけて貯めた食糧が無ければ、この度の災厄は乗り切れませんでした。未だ国際情勢が予断を許さない状況である以上、やむを得ないでしょう」


 リウードルフのスプーンが自然と強く握られる。アインファクスはその様子を横目で見ながら、自分の麦粥を掬った。


 塩をふっただけの控え目な味わいが、喉を通り過ぎる。彼はもどかしさから、深い溜息を零した。


「我々も既に高齢だ。その時まで生きて、成し遂げられるかどうか……」

「その懸念には全く同意いたします……」


 リウードルフは静かに麦粥を口に運ぶ。昼下がりの空の下には、動き始めた都心の喧騒が行き交っていた。


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