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鉄塔のアエネイス  作者: 民間人。
1906年
242/361

‐‐1872年春の第二月第二週、エストーラ、インセル‐‐

 はじめから観光大臣がしたかったわけではない。そもそも、結局は外務卿と一部軍部の仕事が混ざったような新しい役職に対して、あまり関心を抱く気にもならなかった。

 外務卿となれば、味の微細も分からぬあの鉄仮面どもと只管濃ゆいだけの不味い飯を共にしなければならないと思うと、憂鬱ですらあった。


 馬車を牽引する馬が嘶きを上げて小都市の悪路で突然停止する。大した見どころもない、集合住宅が並び立つ中途半端な繁栄具合のこの都市に、苛立ちを募らせていた矢先の出来事であった。


「おいコラ、何で急に止まった!陛下も同席しておるのだぞ!」


「す、すいません……」


 御者台の男が汗だくの顔をこちらに向ける。がに股でふんぞり返る私の隣で、若き日の陛下は足を畳んで苦笑を零していた。


「まぁ、いいじゃないか、フッサレル君。あまりかっかすると彼も怯えてしまうよ」


「陛下のお体に何かあっては大変でしょう!先日暗殺未遂でコボルトの護衛が負傷したばかりですよ!」


 御者が何度も謝罪をする向こう側で、馬車の長い行列が真っすぐに伸びていた。

 陛下の戴冠から10年以上が経ってもなお、陛下の周りでは両宗派の狂信者と愛国主義者たちによる暗殺未遂や、激しい大逆事件が殆ど日常的に起こっていた。

 当時のことを知る者ならば、あの時代の激しい皇帝嫌悪‐‐客人皇帝などという侮辱もあった‐‐の激しさを誰もが覚えているだろう。

 元々お堅いこの国で、陛下が彼らに理解を示しつつ、語学をはじめとした帝国の文化を直向に学ばれた精神力の高さは目を見張るものだった。そういう人だったからこそ、当時の廷臣は彼に忠誠を誓ったのだと思う。


 とは言え、若い陛下の閣僚選びは順調ではなかった。

 農務大臣に据えた私と同世代のアインファクスを始めとした、若く未熟な私達を大臣に起用されたのだから、宮廷は大騒ぎとなった。

 もともと庭いじりに家庭菜園にと、忙しく畑仕事をこなしたり農家に顔を出して研究をしたりしたアインファクスはともかく、私などは外務官としての実績すらない。あるのは父に内緒で市中を遊び回って演劇に耽溺し、酔いつぶれて身包み剥がされたという恥ずかしいエピソードだけだ。


 そんな具合で尖っていたから、身に余る上役にプレッシャーも感じ、しかも私自身が今の仕事に不向きだとさえ思えていたため、苛立ちも最高潮であった。


 そして、インセルという、ノースタットからすれば酷い田舎町への巡幸に駆り出されたとあっては、時の皇帝陛下にさえ不信感を覚えるほどである。


「大体陛下も陛下ですよ!インセルとかいう何があるか分からない町の怪しげな招待に、何故応じたのですか!」


 馬車の周りは竜騎兵が囲み、下馬したコボルト騎兵らが長槍を持って四方八方に睨みを利かせていた。細心の注意を払わなければ、皇帝の命が危ない時代だったのだ。


「折角臣民がご招待して下さったのだ。開演のご挨拶くらいはさせてもらうよ」


 陛下はまだ艶のある白い頬をポリポリと掻いて苦笑する。私はその仕草の暢気さにも、腹が立つ始末だった。


「本当に困ったお方だ!」


 思い切り脚を広げて、背もたれにもたれ掛かる。町にある辺鄙な集合住宅の庭で、共用の井戸を囲んで洗濯をする市民の姿を横目に、遅々として進まない馬車の連なりに貧乏ゆすりをする。当時は恥ずかしげもなくしていた仕草である。


 馬車は長い時間をかけて、一刻分の鐘の間を劇場への移動に回す。やや開けた道に出ると、小奇麗な小劇場の前で馬車が集っているのが見えた。


 小劇場の入り口を囲む烏合の衆が、帝国の国旗を提げている。陛下の馬車を一人が見つけると、何十人分かの黄色い声が重なり合った。


「ほら、歓迎してくれている。この声だけでも来た甲斐があった」


 陛下は柔和に微笑むと、地面に先に出した銀製の杖を軸にして、軽やかに下車をした。

 陛下が手を挙げると、手に持つ国旗が振るわれる。大歓声の人だかりの中を、陛下はゆっくりと歩いていく。赤絨毯の隅に寄り、一人一人の伸ばした手と握手を交わしていく。

 私は陛下と共に赤絨毯の上を歩きながら、頭が割れそうな大歓声の中心を落ち着きなく歩いた。左から伸ばされた民衆の手を、コボルト騎兵がそっと抑え込む。すぐさま私の前を横切った陛下が、抑え込まれた手に自らの右手を重ねた。


 小さな歓声が大きな歓声を呼び、大衆の作る花道は一層の賑わいを作る。私は陛下が左右に動き回るのに肝を冷やしながら絨毯の中央をゆっくりと歩いた。


(暗殺者が毒を塗った手で握手したらどうするのですか)


 もっともな懸念を抱きつつ、陛下の動き回るのを避けながらゆっくりと前進する。人々は私などには見向きもせず、陛下と顔を合わせて目を輝かせている。


 その様子は熱狂としか言いようがなかった。陛下は手袋を外した右手で民衆の手を握り、一言言葉を添えて忙しく動き回った。


 やがて小劇場の入り口に至ると、陛下は一度振り向き、目を細めて民衆を見下ろす。数秒間の大歓声の後、静まり返った劇場の入り口で、陛下は両の手を前で組み、人好きのする微笑を浮かべた。


「本日はこのような素晴らしい公演にご招待いただき、誠にありがとうございます。インセルの文化を作り上げてきた皆様が、こうして私をお招き下さったこと、また、暖かい歓声で私と私の臣下を歓迎して下さったことは、私共にとって至上の喜びで御座います。私自身、フッサレル様という若く才能に溢れたお方に帝国の未来を任せることが出来ることを嬉しく思っておりますが、臣民の皆様におかれましても、私と同じ気持ちを抱いて下さることと存じます。今回、インセルの町を拝観させていただき感じましたのは、この町の素朴な美しさで御座います。道中のベランダに花は満ち、美しく洗われた洗濯物が天日に干されている。絶え間なく続く日常の内で、努力を続けた人々の指先にある皸の痕まで、素朴な温もりに満ちており、心洗われるように感じました。本日は、皆様の健やかな生活を願いつつ、素晴らしい舞台を拝観させていただきます。この素晴らしい公演と美しい町の光景を築いた臣民の皆様に、改めて感謝を申し上げます」


 陛下は深く頭を下げた。臣民の喝采がどっと沸き起こる。丁寧で長い礼の後、陛下は自ら扉を開けて、改めて会釈をし、我々から見れば粗末な劇場に足を踏み入れた。


 劇場のエントランスを右折し、鳶が両翼を広げたような長い階段を登っていく。足元では、先程陛下を歓待した大衆が入場し、受付で料金を支払っている。長蛇の列となった受付では、二人体制で発券の手続きが行われていたらしい。そこには、貧しい者や普段隅に控えるような、赤子を背負う女房の姿もあった。


 二階の廊下を一周し、私達は中央の扉から入場する。受付を終えた市民によって、前列の席は埋め尽くされている。陛下は古い双眼鏡を取り出し、小さな円卓に置くと、その中央にあったケーキ皿から、私好みのイチゴをふんだんに使ったケーキを小皿に取り分ける。それを私の前に寄せると、今度はモンブランを持ち上げてご自分の小皿に取り分けた。

 陛下がケーキを取り分ける間に、ボーイが紅茶を注ぐ。焦げた茶葉の馨しい匂いがふわりと広がり、ケーキに添えられた。


「陛下、お気遣いなさらずとも……」

「これから君にも苦労をかけるだろう。これくらいはやらせてくれ」


 陛下は最後にフォークを取りそろえると、小劇場の、小さな舞台を見おろした。


 幕の上がっていない舞台を前にして、はしゃぐ子供とそれを叱る親、仲睦まじく話をする老夫婦、扉の隅に寄って上目遣いで舞台を見つめる貧民などが、席や立ち見に丁度良い通路に詰めて入る。


 狭い座席を次々と入場した民衆が埋めていく。そのうちに、雑踏は大きくなり、内容の分からない内緒話で小劇場は音に溢れていく。


 陛下は静かに目を細めた。


「確かに、この劇場は少し手狭だ。だが、だから臣民の顔がよく見える。ほら、皆期待に胸を膨らませ、舞台を楽しみに待っているだろう」


 陛下はそこまで言うと、恥ずかしそうな苦笑を零しながら続けた。


「私は客人皇帝で余所者だったが、こうして多くの臣民がこの国の文化に触れ、誇りを抱くことを嬉しく思う。それに、私と同じようにこの国を訪れた人々が、この文化を楽しみ尊重し、そして彼らの齎す文化を臣民が楽しみ尊重してくれることを願っている。難しいことだが、きっとプロアニアの方々にも、理解して頂けるときが来ると思う」


 劇場の座席が埋まり、通路を貧民が囲み始める。灯りが半分消され、仄暗くなると、小さな歓声が起こった。

 人々はみな舞台を見上げ、幕が上がるのを今か今かと待っている。


「君は観光大臣となる前に、沢山の文化に触れただろう。舞台も宴会芸も、コボルトの歌う故郷の歌も、文化に貴賤の差などない。多くの人種と信仰が重なり合うこの国の豊かな文化を育み守っていくこと、それに相応しいのは君だと思う。貴き文化だけでは足りない。道端で肩を抱き合う文化を知り理解する、君しかいないと、私は思うのだ」


 灯りがさらに消え、薄暗くなる。開演の合図と共に、舞台の幕が上がると、小さな舞台の上で、多様な服装の音楽隊が頭を下げた。

 手を染め物で汚した染物師が弓とヴァイオリンを抱き、食堂では乱暴な掛け声を上げるビール妻がフルートを構え、酸っぱいにおいに敏感に顔を顰めるコボルト奴隷のコーヒー嗅ぎがバスドラムの前で撥を取る。

 後部ではシンバルを持つ商会の息子が立ち、その子の名を呼ぶ父親の黄色い声が小さな笑いを起こす。


 人の良さそうな参事会員の指揮者が現れ、客席に頭を下げる。すると、小さな町の隅で練習したのだろう素人の音楽隊は、同じように頭を下げた。奏者は指揮者の頷くのに合わせて頷き、指揮棒を持ち上げるのに合わせて視線を交わらせた。


 寄せ集めの異なる人々が、一本の棒に視線を合わせ、扇状のオルケストラで混ざり合う。それは不器用で喧しい旋律となって、劇場に染みわたっていく。


 皇帝陛下と同じようにできる人は、きっとなかなか現れないのだろう。私はそういう陛下が認めて下さったから、苦手な人々は苦手なままでも、少しは理解しようと努められると思うのだ。


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