‐‐1906年夏の第三月第二週、エストーラ、ノースタット2‐‐
仮にも軍人として鍛錬を積んだジェロニモは、走る速度こそ平均男性ほどだが、持久力においては軍人そのものである。彼の初速は決して速くはなかったが、持久力において老体のフッサレルに劣ることはまず無かった。ジェロニモはみるみる彼を突き放して、侍従たちの髪を持ち上げるほどの勢いで、宮中を駆け抜けていった。
その行動に意味が無いということは、彼自身が誰よりも分かっていた。
狡猾にして陰湿、重箱の隅を突くような執拗さ。あの騎馬戦以降、ファストゥール家待望の嫡男に付けられた綽名は、「狐啄木鳥」である。
父は彼を忌み嫌っていたうえ、その反動で姉にも誇り高い振る舞いを要求するように教育していった。家族に理解者はなく、仲間さえ信用ならず、そうして荒んだ心のままに『狡く弱い』自分の置き場に彷徨っていた彼は、ようやく宮廷で安住の地を見つけた。
彼の役割は冷静に戦局を見つめ、軍の暴走や帝国の尻すぼみを抑えることであったが、彼は見事にそれを完遂してきた。忌み嫌われる自分と皇帝は影と光のような存在であり、それで十分に満足していた。
しかし、彼の望みと故郷の望みが違っていることなど、最初から明らかであり、彼は彼の地にとっては足枷であった。皇帝ヘルムートという人物が善良であるから、彼の地が単に許容しているだけで、彼らは今も市長を窓外に投擲したいし、帝国から独立もしたいのである。
ファストゥール家の嫡男は家臣として、陛下のために、こうした心の動きも何とか押し止められるだけの力を、『無い力』でなく『ある智略』で留めてきたのである。
それに対する仕打ちとしては、皇帝の言葉は余りに酷いのではないか?堂々巡りの口論を繰り返す脳内の自分を、宮中を駆け回りながら抑えようと試みる。しかし足が自然と動くのと同じように、思考は激流の如く留まらずに渦巻き氾濫する。
「待って、待って、死ぬから……」
行き止まりで方向転換をした彼の耳に、周回遅れのフッサレルの声が届く。皇帝だけでなく家臣も高齢となったエストーラの中で、最も若いジェロニモは漸く脚を止めた。
冷静になれば、脚が痛むほどの強い疲労感が襲ってくる。あまり崩れていない表情で荒い呼吸をするジェロニモの背中に、フッサレルは倒れるようにもたれ掛かった。
まさに体力の限界という様子のフッサレルが、年甲斐もなく舌を出して荒い呼吸をする。立派なタイが乱れて傾き、上着は塩が付きそうなほどびっしょりと汗で塗れている。
彼と比べれば数段穏やかな呼吸をするジェロニモは、先に呼吸も整え、荒れ狂う思考を冷静なものに切り替えようとしていた。
「はぁ、はぁ……。君ぃ、待ちなさいと言ったら待ちなさいよ……。私達は若くないんだから……」
「すいません」
俺だって若くないぞと言い返したい気持ちを抑え、口の中でもごもごと謝罪する。改めて対面すると、フッサレルは紳士的な見た目の男で、それが崩れると途端に情けなくなるのが分かる。彼が何とか整理した頭で思いの丈を述べようとすると、フッサレルは気の毒なほどの粗い呼吸のまま、それを手で制止した。
「ふぅー、ふぅー……。いや、人の心は年をとっても、中々変わらないものだね」
「はい?」
ジェロニモは思わず聞き返す。フッサレルは衣服を整え、濡れた上着を払うと、疲れた笑顔を彼に向けた。
「いやね。私のプロアニア嫌いも、君のハングリア嫌いも、変わらないように思ってね」
「私は、別に故郷のことが嫌いなわけでは……」
「それじゃあ早とちりだったかもしれないな。だが私も、君の素顔が見られたのは少し嬉しいよ」
フッサレルは呼吸を整え、ようやく額を拭う。彼は乱れた前髪を慌てて直すと、言葉を選びながら、普段の様子に戻ったジェロニモに言った。
「あー、そうだね。私はハングリアの大きな橋も観光資源にしたいし、ノースタットの環状道路も最高の観光地になると思う。えーっと、違うか。いや、そのね。プロアニア人がそこに来たら殴りたくはなるが、君のように我慢も利かないから。うーん、そうだな……」
フッサレルは崩れる前髪をしきりに整えながら言葉を続ける。壮麗な宮殿には似合わない、どこか間の抜けた立ち振る舞いであったが、それは不思議とジェロニモの心を解していく。
氷柱のようにとがった心が丸くなるに従い、冷静な思考が取り戻されていく。
「ふっ」
思わず零れた笑いに、身振りと手振りを使い始めたフッサレルが目を瞬かせる。ジェロニモは掌を見せて制止をし、それでも零れてしまう笑いを堪えて言った。
「いえ、違うんです。フッサレル様があまりに必死に宥めて下さるので、ちょっと面白くて」
言い切って、言葉を選ぼうとしたのに漏れた本音に急に不安が押し寄せた。彼はフッサレルの顔色を窺う。しかしフッサレルは漸く形の整った髪型を大切に指で支えながら、嬉しそうに何度も頷いた。
「うんうん。若いうちはいろいろな経験をするに限る」
「俺はもう若くないですって……」
ジェロニモは苦笑する。廊下の角から伺っていた家臣たちが、和やかになる二人の姿を見て、安堵の溜息を零した。