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鉄塔のアエネイス  作者: 民間人。
1906年
240/361

‐‐1906年夏の第三月第二週、エストーラ、ノースタット‐‐

 机上に座るオオウミガラスの人形が、爪先を揃え、嘴を陛下の丸まった背中に向けております。海老のように丸まった背中を銀製の杖で支える陛下は、執務室に大切に安置された水晶玉をそっと手で摩りました。

 内部に少しずつ色を得ていく水晶玉に、ムスコール大公国にある民間企業のオフィスが映されました。陛下にも自明ではありませんが、プロアニアかカペル王国の何者かが、監視する絵画を輸出して、この企業が購入したのでしょう。ともあれ、それは私達にとって不幸中の幸いでありました。


 陛下の執務室に集った閣僚は、この数少ない情報源を利用して、帝国の未来を決める必要がありました。幸い、このような事例が大公国内には点在しているために、マスメディアや議員の自宅などから断片情報を得ることが出来ます。


 日常会話や業務中の事務連絡の間に挟まれる、幾つかの雑談において、新政権の状況が明らかになっていきます。


『アーニャさんは、エストーラに近づこうとしているみたいだな』

『プロアニアにあれだけ泥を塗られたら、そりゃあ気持ちも傾くよ』

『ユーリー的にはおいしいんだろう?』

『また若手議員に耳打ちをして宰相下ろしを始めるんだろうな。暇な連中だ』


 家臣一同、顔を見合わせます。ムスコール大公国の無防備なことが、如実に現れているようです。彼らが手に持つ季刊誌も、いかに政府がオープンな政治を心掛けているのかを物語っております。


「ふむ。こちらから仕掛けなければ、暫くはプロアニアも身動きが取れないでしょうね」


 アインファクス様が訥々と述べられると、ジェロニモ様が苦い表情を零します。


「正当な理由を作出する政治手腕に関して、ヴィルヘルムはどの支配者より秀でています」


「内に外に、プロアニアの息がかかった者がいるムスコール大公国です。プロアニアとの縁を切ったこと自体が、両国開戦の端緒となりかねません」


 フッサレル様は額に青筋を作って訴えます。アインファクス様は眉を下ろし、口の中で「確かにそうですが」と呟かれました。


 陛下が水晶を撫で、映像を次々に変えていきます。大公国の首都では、人々が競って新聞を買い漁っています。新聞売りは大層懐を潤わせたことでしょうが、その様子は大公国の変化を如実に示すものでもありました。


「政治に関心を抱く人が増えているのですね。いい傾向だ」


 アインファクス様の言葉には情感が詰まっておりました。慈しむように目を細め、『目覚めた人々』の後ろ姿を見つめておられます。陛下も静かに頷き、水晶を横から覗き込まれます。映像の中にある新聞売りが、雑踏に負けない誇大な売り文句を叫んでおりました。


『さぁさぁ、大ニュース!政府はエストーラへの無期限支援を決定しました!今後両国の関係がどうなっていくのか、速報記事でお伝えいたしております!』


 コインが宙を舞い、新聞売りの広げる茣蓙の下に落ちます。宛ら教会の免罪符がごとき売行きに、新聞売りの表情も綻ぶばかり。新聞の隅にある小さな広告欄にも、掲載依頼が殺到していることでしょう。


「無期限支援……」


 陛下がぼそりと復唱されます。私もまた感極まり、幸福のあまりに口角が持ち上がったのですが、ジェロニモ様やフッサレル様は、あくまで訝し気に映像を覗き見るだけでした。

 お二人の反応は大層似通っておりましたが、フッサレル様のそれは経験上のプロアニア嫌いから来るムスコール大公国政府への猜疑心であり、戦略上の不安分子を拭えないことへ対する不安に警戒心を露にするジェロニモ様のそれとは異なっているように思われました。私は口を引き結び、陛下が水晶を撫でるのを補佐します。


 続けて水晶に投影されたものは、我が国に所属するジュンジーヒードの様子でした。エストーラ人市長が粛々と仕事をこなし、書類を静かに運ぶコボルト奴隷の姿が映されております。

 それは戦前から変わらない光景でした。市長の仕事は現地貴族の名簿の管理と、彼らの部隊配属に関する細かな取り決めです。その承認を任されているジェロニモ様は、表情を殆ど動かさずに、その様子を見つめられました。


 気まずい空気が充満し始めます。帝国内における爆弾の一つと目され、ジェロニモ様の大出世により一時期はなりを潜めた論争について、この場にいる誰もが意識を向けざるを得ませんでした。


 両手で杖を掴む陛下が、しわがれた声で仰います。


「ジェロニモ君」

「はい」

「私は、いつか、ハングリアと呼ばれる地が、エストーラから離れていく時が来ると思っている。その時が今であったとしたら、君は戻りたいかね?」


 オブラートに包まれたところのない、率直な質問でした。

 今、帝国が彼の地を手放したら、‐‐それは即ち、強力なコボルト奴隷軍人を手放すことと同義です‐‐プロアニア王国に太刀打ちする手段の一切を失うことに等しいでしょう。

落日に向かっていく『帝国』の首の皮を何とか留めていた彼ら臣民の、独立へ向けた強い羨望は、時にはエストーラ人の市長を窓から投擲する騒動が、あらゆる時代に起こったことにも現れております。

この、彼の地に住む臣民が望む独立という夢は、帝国内において最もデリケートな問題であり、また陛下が常に意識の隅に置いていた一種の公約でもありました。

 しかし、現実主義者であるアインファクス様もベリザリオ様も、理想主義者であるフッサレル様も、どちらにも属さないリウードルフ様でさえ、弱体化した帝国が彼の地を手放すことは出来ないことを分かり切っております。ですから、誰も、当事者であるジェロニモ様も勿論、それについて言明を避けてきました。


「私は、軍人として、職務に忠実であるべきだと考えております。……現実的な話をしま」

「私は、君の気持ちについて聞いているのだ」


 普段の陛下とは思えない、早口で語気の強いお言葉でした。語尾をかき消されたジェロニモ様が、思わず腰に下げた鞘を鳴らします。揺れる勲章のリボンが衣擦れを起こす静かな音が響き、ジェロニモ様は静かに俯かれました。


「気を遣ってくれているのは嬉しい。だが、私は、臣民の幸福を願っている。本当の望みが何であるのか、それを知りたいのだ」

「陛下、それ以上は……」


 私には、陛下の言葉は余りにも辛い仕打ちに思えました。ジェロニモ様は陛下への御恩も感じておられる御仁です。帝国の軍事を任される智将として、陛下に認めてもらえたことを、誰よりも喜ぶお方です。

 だからこそ、帝国の未来も、故郷の独立も、そのどちらかを選べというのは、心中穏やかではないでしょう。


「正直に言えば、彼の地に在る多くの民が独立を望んでいます。特に、コボルト奴隷達。彼らは自分達の国家を持たない人々です。独立という言葉に強い憧れを抱いています」


 陛下は静かに頷かれます。水晶の中では、書類を運んでいたコボルト奴隷が、市長のために淹れた熱い紅茶を運んでいました。

 その尻尾が股の下に収まっている様子を、ジェロニモ様は苦々しい表情で見つめております。


「ですが、それは現実的ではありません。もう彼の地はエストーラと混血が始まって久しいですし、その子孫たちには独立など考えられないという人々さえ居ります。敢えて強い言葉を使うと、エストーラによる長期にわたる文化的な侵略の成果です」


 ジェロニモ様は拳を強く握り、手を震わせます。陛下からは顔を背け、消え入りそうな声で答えました。


「ですが、私は、陛下の臣下でいたい。陛下のお傍に置かせてほしい。独立すれば生家に戻り、彼の地の名士となるでしょう。そんなのは嫌です」


 耐え難い苦悶の表情の次には、彼は眉を吊り上げ、陛下を睨みつけます。あまりの光景に、私の胸は張り裂けそうに痛みました。


「陛下、私達が信用なりませんか?これほど帝国の存続に貢献した彼の地を、私の故郷を何故つけ離そうとするのですか!?」


「ムスコール大公国からの軍事面での支援が叶えば」


 陛下のあやすような語り掛けを聞き、アインファクス様が何かに感づき、すぅっ、と息を吸い込みます。それに続いて何かを察した家臣たちが、ジェロニモ様の震える右手を見つめました。

陛下は普段の穏やかな語り口で続けられます。


「エストーラは軍事ではなく経済に注力することが出来るようになる。その時に、ハングリアの臣民が望むのならば、望み通りに独立を約束して、次は盟友として共に歩みたいと思ったのだ」


 誰も口を挟みませんでした。ジェロニモ様は縋るように剣の柄を握り、ガタガタとそれを揺らしております。陛下は穏やかな表情を向けて、僅かに口角を持ち上げられました。


「ジェロニモ君には辛い質問をしてしまったね。本当に申し訳なかった。だが、私は誰かの幸福を望むことを止められない。不信からこんなことを言っているのではない。共に未来へ進めると信じているから、君に問いたかったのだよ」


 ジェロニモ様は眉を顰め、普段は隠している表情を露わにします。強い憂いと依存に満たされた心が、彼の表情を暗く、乱れたものに変えてしまいました。

 沈黙を守る彼の代わりに、フッサレル様が答えられました。


「陛下。今はその時ではありません。ムスコール大公国の軍隊が、役に立つとも限りません。彼らの願いを叶える時は、本当の危難を拭い去った時に訪れるでしょう」


 陛下が同意をしようとしたその時、ジェロニモ様が部屋を飛び出していきます。乱暴に閉ざされた扉の蝶番が、鈍い悲鳴を上げました。


「待ちたまえ、ジェロニモ様!」


 フッサレル様が彼を追いかけていきます。身を起こす陛下を、私は静かに宥めました。

 カサンドラ妃の時も、陛下はそうして悲しみを背負ったように思ったからです。


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