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鉄塔のアエネイス  作者: 民間人。
1896年
24/361

‐‐1896年夏の第三月第一週、カペル王国、ペアリス1‐‐

 この年は、カペル王国内でも大きな不作の年となったが、王宮に収められた実物の納税を一年免除する勅書が発令されたことで、ペアリス周辺での餓死者は最小限に抑えられた。

 しかし無傷というわけにはいかず、経済的な打撃は小さくなかった。穀物などの主要な農業生産物の多くを中心に、深刻な価値のインフレーションが生じてしまったのである。

 貴族社会の同国において、全国的な餓死者数のコントロールは国王一人には困難を極めたが、それでも、最終的には一部の貯えを提供する高貴なるものの責務に基づいて、他国と比較すれば非常に少ない被害に抑えられたといえる。


 さて、カペル王国における妻の役目の一つに、城代がある。特に国王ともなれば、王国内の各地を転々としながら治安の維持や領主への主従関係の更新を行うことは頻繁にあり、アンリもその例にもれず、特に暖かい時期には国内を巡遊することが多い。その為、この年も、王の居城であるデフィネル宮やペアリス宮の城代として、アリエノールは執政に当たることになった。


 とはいえ、基本的には家臣たちが殆どの執務を行う為、彼女の出る幕は基本的にほとんどないというのも、例年の慣例であった。


 デフィネル宮の温い空気は、一人部屋に押し込まれたアリエノールの凍り付いた呼吸を溶かすことには役立たない。彼女は今朝からずっと、城代として、王の代わりに当たり障りのない書類に目を通して判を押す仕事をこなし続けていた。


 ゴテゴテとした装飾が施された内装の殆ど一部だけを使って、山と積まれた書類と机上の置物にだけ視線を預ける。彼女は凝った肩をしきりに揉みながら、細く長い息をついては書類の山を見つめた。


 王の執務の半分は、こうした判を押す仕事である。アンリが書類片手に城内をうろついている様はもはや日常の光景だが、彼女は城代の間に彼のエネルギッシュな一面を毎年思い知らされるのである。


(元気なのはステータスねぇー……)


 彼はこの半日分の仕事を早朝に済ませると、そのまま会議や儀式、謁見や出張、国境警備隊の報告確認、予算の確認と承認、商人との兵器や新什器などについての相談、司教や枢機卿との宗教行事についての相談、勿論他愛のない雑談までこなしている。

 一人の人間が仕事漬けになってやり切るには相当身を削らなければならない仕事量を、どうしても彼はこなさなければならない。アリエノールは再び机に向かい、書類を手早く確認しては、判を押す作業を再開した。


 朝から昼過ぎまでのこの、息の詰まるような時間を終えると、彼女は書類を書記官に託し、デフィネル宮からペアリスの王宮まで御用馬車を走らせた。


 ペアリスの大通りは普段と変わらぬ賑わいを見せていたが、どこか息の詰まるような緊張感があり、誰もが疲弊した表情を完全に隠せないでいた。

 2つの尖塔がある教会や、古代を思わせる支柱を持つ四角い大学などを横切る。彼女は、その場所に集まる人々の顔をよく観察した。教会では、食事にありつけない貧しい人々が列をなし、大学では煌びやかな服装の貴人や豪商の息子などが、猥談をしながらはしゃいでいる。このアンバランスな光景を目の当たりにするたびに、アリエノール自身、自分の特権が信じられない犠牲の上にあるのだという自覚を持たされるのである。


 ペアリス宮に赴くと、真っ先に出迎えるのが芝生の庭園である。時代の流行に合わせて植生の変わる宮殿の花壇には、薔薇の花やアイリスなどの基本的な花が植えられる。畑にはこの時期には南国の珍しい果物や、藍色のアクセントになる葡萄などが植えられている。

 広々とした開放的な空間の中央を堂々と進む馬車は、重厚な杉製の扉の前で停車した。


 この建物は、かつて自分の夫と同じ名を持つ王が、王妃に子供達を人質に取られて譲歩した事件の舞台である。その時に自分の故郷を王が攻めていたことを思うと、なんという因果であろうか。彼女は謁見の予定に間に合わせるために、馬車から降りると早足で宮殿の中へと入っていった。


 広く年季の入った数多の絵画や、王権の象徴であるアイリス紋のヴォールトで飾り付けられた高い天井を持つエントランスが出迎える。壁際には歴代の王族が列を作り、降り注ぐ光の筋が大理石の床を輝かせ、赤絨毯の毛並みの良さを浮き立たせる。彼女が育った故郷の城にある黴臭さは微塵もない。


 王妃は赤絨毯の中央を堂々と歩く。今日は青地にアイリス紋の王のマントも身に纏っている。ゲーブル・フードに前髪を隠し、ドレスの裾に気を配りながら、ハイヒールを引き摺るように歩くぎこちない様は、宮廷の女官達には奇妙に映った。


 王妃とすれ違う男たちは皆恭しく頭を下げては、通り過ぎた女の歩き方について仲間達と話している。アリエノールも「田舎女」の声に思わず唇を嚙んだが、何よりもこの異様な高さのヒールを制御することに心を配らねばならなかった。

 トランペット・スリーブの裾が擦れるたびに、耳飾りがざらりと音を立てるたびに、彼女の中に沸々と不快感が湧き上がる。


 ‐‐こんなものは故郷では着なかった。こっちに来てからだ、こんな服を着るのは‐‐


 この見栄の塊のような動きづらい服装は、彼女には馬鹿馬鹿しく思える。全身に纏った不快感の最たるものが、内臓を押し潰さんとするコルセットである。ゆったりとした衣服を身に纏い、肌にやたらとこすれてただでさえ鬱陶しいのに、腹だけはしっかりと固定されて、戻しそうなほどの窮屈に耐えなければならない。

 通りかかった男の服は脚のラインを強調させた、動きやすい服装だというのも、彼女には益々ストレスとなった。


 彼女が謁見の間にたどり着くころには、アリエノールに纏わり付いた視線が、矢のような痛みとなって彼女の肉体と精神を貫いた。


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