‐‐●1906年夏の第一月第三週、プロアニア王国、ソルテ4‐‐
「ただいま。鉄兜は?」
半目は帰宅早々に自分のベッド、藁敷きベッドで眠る鉄兜の方へと飛び込んだ。
「この通りだ。何とか寝かしつけたよ」
「おおー。ありがと」
「じゃあ、俺は交代で行くからな」
「ん。気を付けて」
男は夜の仕事に向かうために工事現場へと向かった。
半目はそれを見送ると、直ぐに鉄兜の枕元に滑り込む。騒々しい来訪者に、鉄兜の目がわずかに開いた。
「ただいま」
半目はにっと歯を見せて笑う。半目の顔を見るなり、大きく目を見開いた鉄兜は飛び起きて、見慣れない光景に目を瞬かせた。
「えっ、えっと……」
古い煉瓦造りの家屋に、床に藁を敷いただけの寝床が二つあり、台所には古い竈があり、その上に空の大きな鍋がある。混乱して周囲を見回す彼の膝の上には、温くて湿った襤褸布が落ちている。
そして、彼の枕元には水の張った桶と、戦場で出会っただけの関係だった半目が座っている。
「生きてたなら言ってくれよなぁー」
半目は間延びした声で言う。心臓が縮こまりそうな轟音が耳元で鳴り、鉄兜は身を起こしたまま飛び上がった。
すかさず半目が抱き寄せて、背中をトントン、と叩く。
「大丈夫、大丈夫。俺の屁だからな」
「こんなでかい屁があるか、馬鹿!」
半目に抱き寄せられるままに任せて、恐怖に任せて泣く。彼の耳元では、今も銃声が飛び交っている。
やがて銃声が遠くなると、彼は消え入りそうな声で、半目の耳元に向けて語る。
「……あた、までは、分かっているんだ。戦争は終わったって。でも、耳元で、幻聴が聞こえると、どうしても体が反応して……」
「うんうん」
「それで……一度は、収まって、たんだけど、プロアニア兵が、駐屯し始めて、強制労働が始まると、どんどん……。頻度が、増して……」
「うんうん」
鉄兜の荒い息遣いは、生温かい空気となって半目の耳たぶにかかる。自らの顎を戦友の肩に乗せて告白をしていると、彼の縮んだ肺と心臓は、少しずつ本来の大きさを取り戻していく。
「俺の屁、そんなに臭かったかぁ。ごめんなー」
「もうその嘘は良いって……」
半目はからからと笑う。彼は起き上がった鉄兜の足元を一瞥し、口角を持ち上げた。
「……足、治ったな。切らなくて済んだな」
「プロアニアの軍医が、お前が使ってくれたような粉を塗したり、乾かしたりして治した。いい医者がいたもんだって、ぼそっと呟いていたよ」
半目は恥ずかしそうに目を細める。遠ざかっていく微かな銃声を聞きながら、鉄兜の心は凪いでいった。
「お前は、大丈夫だったのか?」
「ヴィロング要塞からずっと、プロアニア兵の軍行を追って生き延びた。戦争の混乱に乗じて水車小屋の麦粉とかかき集めて、森の糞不味い果実とか食べて生きてたよ」
「戦後にソルテに入り込んで、ソルテ市民として鉄道敷設に駆り出されたんだな」
鉄兜は先回りして答える。半目は人差し指で彼を指差すと、「正解!」と威勢よく言った。鉄兜が過剰な反応をして、半目は指を引っ込めた。
「あ、ごめんな?」
「ごめんなはこっちだよ。臆病者でさ……」
暫くの沈黙。機嫌の良さそうだった半目に不服そうな顔を向けられて、鉄兜はたじろいだ。
「臆病者で何が悪いんだよ。死ぬのはみんな怖いだろ」
「でも、俺、まともな仕事も出来なくて、国まで滅んだし」
「お前が戦えても戦えなくても、国なんか滅んでるだろ。なんでお前が臆病者だといけないんだよ」
「えっと……」
言葉に詰まった鉄兜は視線を下ろし、膝の上に落ちた襤褸布を持ち上げる。それが自分の額に乗っていたものだと気づいて、再び気持ちを切り替えようと顔を持ち上げた時、彼の視界に顔を歪ませて瞳を潤ませた半目の顔が映った。
「俺だって怖かったよ。もう誰にも会えないかと思った」
半目は再び鉄兜を抱き寄せる。今度は自分の顎を肩に乗せ、鉄兜の上衣を濡らした。
「……なんだかなぁ」
鉄兜はぽつりと零す。言葉の続きを考えておらず、暫くそのままで制止した。
流されるままに流されて、訳の分からない理由で共同住宅に押し込まれて、何の意味があるかもわからない仕事を続ける。そうして続けてきたことに対して、鉄兜は明確な未来を見いだせないでいた。
そして彼は、再び、ただ脳裏に浮かんだ言葉を零す。
「何か良いこと、起きないかなぁ……」
彼の耳元を、銃声と着弾音が再び襲い来る。彼はそっと、抱きついて泣く半目の頭に手を添えて、互いの心臓の鼓動を確かめた。