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鉄塔のアエネイス  作者: 民間人。
1906年
234/361

‐‐1906年夏の第一月第三週、ムスコール大公国、国会議事堂3‐‐

「はぁ……」


 アーニャは閣僚用の執務室にある座り心地のよい椅子に腰かけ、項垂れていた。椅子は羊毛の入った高級品で、人肌で温めることで高い保温性を持つ。

 もっとも、彼女にそれを喜び楽しむ余裕はあまりなかった。


(先ずは議員の中に『仲間』を作らなければ……)


 自分が近づき仲間になるのは容易いが、他人を仲間に引き込むのは、この世界では非常に難しい。宰相になったとはいえ、任期もあり一過性のものかもしれず、支持政党もなく、高名でもないアーニャを信頼して近づいてくるものは少ない。もしいるとすれば、それは宰相の地位があるうちに傀儡にしてしまいたいと考える与野党いずれかの議員である。


 荷物が運び込まれて間もない、未整理の執務室にノックの音が響く。


(うわ、来た……)


「もし、もし。アーニャ閣下。私のことはご存じでしょう。ユーリーですよ、ユーリー」

「どうぞ」


 アーニャの声を受けて、ユーリーを名乗る男は扉を開ける。金髪の巻き毛を持つ西方貴族かぶれの男であり、体の線は細い。目は垂れ目がちであり、年齢よりもはるかに若々しく見える。


 アーニャは歓迎の姿勢を見せるために一度立ち上がり、握手を交わした。


(野党第一党の党首だけあって動きがはやいな……)


 彼はアーニャの手を撫でるように握り、包み込むようにそれを上下に動かす。握手を終え、たれ目を細くして微笑むと、彼は室内を見回し始めた。


「おや、まだ荷卸しの途中でしたか。お手伝いしましょうか」


「いえ、自分のしっくりくる配置があるので、結構です。ありがとう」


 ユーリーは微笑を湛えたまま、口の中で「それは残念」と零した。

 巻き毛をくるくると構うユーリーを前にして、彼女は身構える。

 彼女には、着任早々に野党の党首が執務室にやってくるという状況が、既に彼らの思惑を感じずにはいられなかった。


「ユーリー様、ムスコール大公国は今、プロアニアと一触即発の関係にあります。国内での内部抗争や、社会不安が広がれば、彼らは一気に押し寄せてくるでしょう。与野党共闘の姿勢が、我々に求められていると考えています」


「ご理解頂けているようで何より。大空位時代の轍は踏むべきではない。ですから、私のご意思を尊重して頂けると助かるわけですよ」


 ユーリーは、左手の細い人差し指に巻き毛を絡ませ、右手でアーニャの顎を持ち上げる。吐息がかかるほどの至近距離で顔を向かい合わせると、ユーリーの顔立ちの良さが際立った。


 齢50を過ぎているとは思えないきめ細やかな肌、若さの象徴である艶やかで豊かな金色の巻き毛、歯は白く、西方貴族よろしく整えられた薄い髭、潤いに満ちたふくよかな唇。道ですれ違えば振り返ってしまいそうな年不相応の美しさが、アーニャの視界一杯に広がっている。


「私共は平和と共栄を望んでいます。カペル王国のことは残念でしたが、プロアニア王国とは今後も程よい距離間で付き合っていきたい。時代は外交を求めている」


「仰ることはもっともですが、それはプロアニアが信頼のおける国である時に限ってのお話です。貴方を万歳讃頌することは出来ません」


「んんっ、これは残念。では具体的には?どのようにされるおつもりで?」


 ユーリーは白い歯を見せて微笑する。アーニャは彼の右手首を掴み、自分の顎から離した。


「プロアニアがエストーラや我が国を武力で以て脅かそうとする時に備えて、平和兵器の大量生産を提案します」


「万が一にも戦争が起これば、世界を滅ぼすおつもりですか?」


「そうでなければプロアニアを止められない。最早そういう段階に入っているのですよ」


 エストーラのインセルに落とされた爆弾の威力を考えれば、それが平和兵器であることは即座に理解できる。プロアニアがこれを量産するつもりならば、抑止力を持たなければ危機的状況に陥るだろう。アーニャの考えはあまりにも現実的で、悲観的でさえあった。


「残念ながら我が国は、技術の精度ではプロアニアに劣っている。あの飛翔兵器も我々では作れません。科学技術に力を入れつつ、数の暴力で敵への抑止力とします」


「そうすると一か所で作るのはリスクでは?幾つハコモノを作るおつもりですか?」


 ユーリーの垂れ目がわずかに開く。青い瞳には鈍い光が宿っていた。


「……タイガやツンドラならば、人の数も少なく、万が一の事故も被害を最小限に出来るでしょう」


 互いに睨みあい、暫く沈黙する。ユーリーは右手を払い、髪に当てていた左手で右手首を摩りながら、穏やかな微笑を湛えて答えた。


「私とは思惑の違うお人のようですね。残念ではありますが、私も手を尽くし、『貴方を手に入れて』みせましょう」


 アーニャの全身に鳥肌が立つ。ユーリーは衣服を整えて踵を返し、扉に手をかけた。


「ああ、言っておきますが、我々の力を甘く見ないことです。一端の宰相一人くらい、簡単にお縄にかけてしまえますのでね」


 ユーリーは振り向きもせずに部屋を出ていった。張りつめた緊張感から解放されて、アーニャはようやく体に温度が戻ってきたように感じる。


「多分、あれに目を付けられたんだ……」


 官僚時代に野党勢力の恐ろしさを痛感したアーニャは、自然と震える体を縮こめた。


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