‐‐1906年夏の第一月第三週、ムスコール大公国、国会議事堂2‐‐
扇形に広がる左右の両翼に与野党それぞれが集う。両者の中央にはこれまで一度も議席を取ったことのない新人議員たちが数名出席している。彼らは互いに握手や挨拶を交わしてから、名前の書かれた議員席を探す。細長い名札を注意深く確認しながら、初々しい若い顔が席の前後を行ったり来たりする。
アーニャは前方の席を探し回り、自分の名前をようやく見つけると、他の議員に紛れるように控え目に座る。
議員席から見上げる無人の閣僚席には、以前自分が席についていた官僚用の席がある。大体は、長官が質疑応答の際に宰相の補佐をする目的でその席に着くのだが、今は内閣不在の状態で列席者はいない。名前の若いアーニャは議席も中央の書記官席に近く、階段状の議場では下段に当たる位置にいるため、閣僚用の席は大層高い位置にあるように思われる。意図せずに自身の視線が持ち上がる。
(なんだか目下になった気分……)
以前はあれこれと閣僚に指示を受け、立法案の調整や質疑応答のために振り回されていたが、いざ議員として席に着くと以前の方が影響力を得られるのではないかと思える。
ぼんやりと懐古の念を抱いていると、議席が埋まり始める。議長席に前議会の議長が現れて、最後の仕事をこなそうと席に着く。
書記官たちが真新しい議事録を開くと、議席に静寂が戻る。名士たちが腕を組み、左右の両翼から中央の議席に視線を寄越している。議場の雰囲気が一気に厳かなものに変貌し、無所属議員たちが緊張した面持ちで議長席を見上げた。議長席の真下には、採決用の投票箱がある。アーニャは投票箱に視線を向け、緊張を紛らわそうとした。
「それでは、1906年度、第一回の定例議会を開始いたします。議員の皆様はご起立願います」
中央から波打つように議員が席を立つ。議長の「礼」という掛け声を受けて、議員たちが一斉に深い礼をする。議長席の後ろには、ムスコール大公の紋章であり、大公国の国章とされるものが飾られていた。
「有難うございます。着座をお願いいたします」
議員たちは再び席に着く。名士たちは腕を組みなおし、若手議員たちが背筋を伸ばして議長席を見上げる。
「さて、先ずは宰相の決定に関して、推薦状を頂いておりますので、その意思を問うところから始めます」
誰も動じることは無かったが、アーニャはその違和感に思わず顔を顰めた。従来の議員席は静かなもので、それらが既に両者にとって同意済みの事項であることを暗示している。
(いずれからも野次が飛ばないということは、恐らくスケープゴートを立てる気だ……)
支持者も権力も持たない者に、宰相職を委ねる。滅多にない事例ではあるが、そうして権力者たちが牽制し合うという例は歴史上稀に見られる。誰がその役割を任されるにしても、アーニャは協力的に動くことを決めた。
(とにかく今は、国内政治を安定させること、一貫した政府を立てて、プロアニアからの介入を許さないことが重要……)
両翼の議員たちは見定めるように中央議席を流し見ている。
「アーニャ・チホミロフ・トルスタヤ君。推薦に同意していただけますか?」
「えっ私ですか?」
「えぇ。貴女が同意して下さらなければ、再び立候補者を募ることとなります」
両翼の議員たちがアーニャのつむじを見おろしている。獲物を狙うかのごとく、彼らの眼光が鋭く光っている。
(これ……どうするべき?)
アーニャは自身が次期宰相を補佐することは想定していたが、自分が宰相になることとなるとこの場に支持者がいない問題を解決できない。彼女は暫く沈黙し、両翼から降り注ぐ鋭い視線を見回した。
「……分かりました。やります」
おお、という歓声が中央議席から響く。両翼の議員たちも安堵して隣席の議員と顔を見合わせた。議長が方々に視線を送りながら続ける。
「では、彼女への推薦に同意の意思を取るため、採決を取ります。各議員は投票箱の前に整列をお願いします」
議員たちが列をなし始める。アーニャは議員席から身を乗り出して、投票用紙を覗き込む。議席率が変化したとはいえ、与野党両政党の獲得議席率は無所属議員の比ではないので、もしも両者が同意の上で策を弄しているのであれば、結果は目に見えている。アーニャなど頼る者がいないので、彼女の内閣が組成されても安定政権には程遠いと言わざるを得ないだろう。
殆ど祈るような気持ちで、アーニャは自分の信任を避けるよう願った。
勿論牛歩戦術などを取る者もなく、議員たちは次々に投票を終えていく。やがてその場で開票が行われ、すぐさま議長に結果が運ばれる。
議長は老眼鏡をかけ、開票結果を開く。彼は鼻の先に置いた老眼鏡の隙間から、議場を見上げながら答えた。
「採決の結果、信任ということで、アーニャ・チホミロフ・トルスタヤ君は宰相席にお移り下さい」
白々しい拍手の音が響く。アーニャは両翼を睨みながら、宰相席についた。続けて、議長の後任を決める投票が行われる。ここでは、左右両翼の議員が臨戦姿勢で睨みあいを始めた。
アーニャはその後の採決については殆ど上の空で、今後の「行政」の方針について思索を巡らせた。