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鉄塔のアエネイス  作者: 民間人。
1906年
232/361

‐‐1906年夏の第一月第三週、ムスコール大公国、国会議事堂‐‐

 曇天が闇と一体化した空には、一分の光も見当たらない。初夏の高い湿度のために、夏の中頃よりも寝苦しい程だ。

 室内はフローリングの床に絨毯を敷いたものであったが、椅子などはなく、ムスコール大公国の伝統的な物品ではなく、異文化の家具が集められている。殆どは西方から齎された品が並んでいるが、時折東方の珍品が幾つか収蔵されている。それらは4か国同盟成立以前の西方世界から齎された品々であり、大公の蒐集品であったと推察される。そうした品々の中に、当時西方貴族の贅沢品であった東方の品々が幾つか紛れているのであった。


 物音を立てないように慎重に扉が開かれ、早足で二人の男が入ってくる。彼らは外を一度確認し、戸を閉めた。

 電灯を点けるわけにもいかず、彼らは蒐集品から明かりに出来そうなものを探す。汗ばんだ二人の男は手頃なものを見つけて、気の進まない様子でそれを自分達の傍に動かした。それは暖を取るための火鉢であったが、灰の入った器の中に木炭を乗せて灯り代わりに着火する。

 季節外れの陶製の火鉢を囲い、これまた季節外れのプロアニアの民族衣装を着こんだ男たちが、ネクタイを緩めて向かい合う。


 極寒のこの地における炎は一種の神秘性を有している。曇天が多く日の当たらない気候も手伝って、古くから明かりとしての役割も担っている。火鉢の中で活性炭がひっそりと赤い明かりをともし、互いに顔を闇に隠した男たちが盃を持ち上げた。


「乾杯」


 陶製のカップがぶつかり合う。蒸留酒の中で火鉢の微かな明かりが踊り、波紋が広がっていく。一杯を飲み干した二人は、直ぐに互いの手元にある酒を各々に注ぎ合い、小さな溜息と共にカップを足の先に置いた。


「意外な展開だったな」


「えぇ。共倒れと言ったところでしょうか」


 二人は対照的な声をしている。一方は野太く粗野な声で、もう一方は紳士的な落ち着いた声である。粗野な声の持ち主が大きな体を動かし、胡坐をかく。再びカップを傾けて、灼けるような感覚を喉に流し込んだ。


「どうする?ここに来て足の引っ張り合いは余りに不毛だろう」


「えぇ、まぁ、それは。ですが、私も政権を諦める気はありませんので」


 野太い声が唸る。丸い顎に生えた無精ひげを摩ると、男は手を膝の上に乗せて前傾姿勢を取る。


「俺は一旦政権を降りて、協調路線を取るべきだと思う。だがお前に宰相の座を譲るのは我慢がならない」


 野太い男は更に酒を仰ぐ。暗い室内で、赤い鼻先が目立ち始める。紳士的な男は小さく息を吐き、火鉢の中をかき回した。


「何を警戒しておられるかは知りませんが、長いこと玉座に胡坐をかいていた貴方がそう言うのでしたら、こちらも譲歩せざるを得ないでしょうね」


 細く白い指がカップを持ち上げる。しかしその指先は、そっと縁をなぞるだけで、口に運ぶ様子はない。


「お前、俺の酒が飲めないっていうのか?」


「ははは、似た者同士仲良くしましょうよ」


 男は細い指先で左手にカップを置きなおすと、右手の鞄を開いて小包を取り出す。丁寧に装丁を開くと、中にはシュークリームが入っていた。


「乳は大丈夫ですか」


「毒が入っていなければな」


 落ち着いた声の男がふっ、と小さく笑う。彼は丁寧に指でシュークリームを取り出すと、皿に乗せ直して男に差し出した。

 粗野な声の男は唾を飲み込む。再び乾いた笑い声が零れた。


「似たようなものじゃないですか。互いに信用ならないようです」


「当たり前だ。お前たちのシリヴェストール叩きは度が過ぎた」


「私共からすれば、正義はこちらにあるのでね。やはり互いに干渉しやすい妥協案が必要ですね」


 白く細い指先がそっとシューを持ち上げる。男は柔らかい生地をクリームに触れないように慎重に破り、それを口に運ぶ。粗野な男はあからさまな不快感を露わにした。


「おい、それは一緒に食べるものじゃないのか。クリームにだけ毒でも入っているのか」


「まさか。私は私の好きなものに毒を入れたりしません。毒は吐くものですよ」


 男はシュー生地を食べ終えると、クリームのたっぷり乗った生地を豪快に口に運ぶ。野太い声の男が困惑の唸り声を上げた。


「……お前がどう考えるのかは知らないが、今回の選挙で祭り上げるのに丁度いい候補なら一人いるぞ」


「ほぉ。興味深いですね」


 小さな口がクリームを啜りつつ答える。野太い声の男は胡坐をかいたまま脚を火鉢に引き寄せ、男に耳を寄越すように促した。白い肌が男の手にそっと近づく。太い腕に耳を預けた男は、説明を受けて頷くと、耳を外して姿勢を正した。


 二人が盃を持ち上げる。火鉢の微かな炎が弾け、陽炎が持ち上げたカップの影を歪める。


「善き出会いに感謝を」

「シュークリームはシュー生地ごと食べた方が良いぞ」


 白い肌の男が不満げに顔を顰める。野太い声の男はようやくシュークリームを持ち上げて一口食べた。慎重に咀嚼をする男に向けて、カップが近づけられる。


「せっかちだな」


「政治が混乱している時、その舵取りは迅速に決められるべきです」

「よく言うよ」


 カップが互いの縁をぶつけ合う。陶磁のぶつかる甲高い音が響く。度の強い蒸留酒はそれぞれの口へと運ばれた。

 野太い声の男は灼けつく喉を鳴らし、小さな溜息を零す。曇天の切れ目から、白い光が朧げに瞬き始めた。


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