‐‐1906年夏の第一月第二週、ムスコール大公国、サンクト・ムスコールブルク2‐‐
投票所には珍しい長蛇の列が並ぶ。前日の放送が話題を呼んだのか、老若男女問わず、様々な有権者が列に並んだ。
制限選挙の時代から長い間続けられてきた選挙の歴史は、年を経るごとに神秘性を失い、一部の人々によってその権威が支えられていくようになった。今回の選挙は、そうした歴史に一つの転換点を与えたのだろう。
アーニャは投票所の様子をコーヒーハウスから見守りながら、この選挙が持つ意味をしみじみと感じ取った。
投票所に集う人々は、普段プラカードを掲げたり、コーヒーハウスで議論をするような人々ばかりではない。子供を連れた家族や、友人と共にやってきた若者、ぼさぼさの頭をしたいかにも引きこもりの男など、政治にはそれ程関心を持っているとは思えない人々も投票所に足を運んだ。
そして、そうした人々によって政治が動かされる瞬間というのは、選挙が持つ本来の要請が取り戻された瞬間であるように思われた。
彼女は熱いブラックコーヒーを啜る。舌の上を滑る苦みと焦げた芳香が、心地よい安堵を誘った。
今も議員たちが最後の演説を行っている。支持者たちは自分達の支持する立候補者の得票数を睨み、祈るように集会所で手を合わせている。
投票を終えた人々にインタビューをする報道官達が、出口を塞ぐ。度数計を持って入り口に座る八等官が、入所する有権者の数だけボタンを押す。半分眠ったような瞳で度数計を見おろす彼女は、膝の上に各議員のマニュフェストを纏めた用紙を持っている。
「意外なことが起こっています!」
コーヒーハウスの窓越しに、新聞売りが大声を上げるのが聞こえる。彼女は鼻先で湯気を受け、窓の外を見た。
「今回初となる立候補者のアーニャ氏が、当確となっています!政党議員ではない女性議員の当選はこれが初です!」
「えっ?」
アーニャ自身が目を丸くした。一枚のぺら紙に人々のコインが投げ込まれる。コーヒーハウスの店員も速報の購入のために建物を飛び出していく。
「何だ、風向きが違うようだな」
「皆消去法か顔で選んでいるに違いないな」
「案外物言わぬ多数派の力も馬鹿にできないな」
方々から言説が飛び交う。彼らはアーニャがそこにいることも知らずに、議論を交わし始める。店員が獲得した速報記事を3冊持ち上げて戻ってくると、顧客が店員に手を挙げて記事を求める。店頭から順に記事が配られ、その周りに客全員が集まる。アーニャは耳を欹てる。人々は目を細めて、記事の内容を読み解こうとした。
「若年層の投票率が高いな」
「おい、詰めてくれよ。見えない」
「コーヒーそこ置いといて!」
オレンジ色の明かりで演出される店舗の雰囲気が壊れるほどの喧騒が起こる。やがて記事を読み終えた人がちらほらと現れると、彼らは記事を後ろの群衆に回していく。
「しかし劇場型の総選挙はやめるべきだな。こういう良く分からない奴が当確する」
「名前が知られていないだけだろ。なんか元官僚なんだろ?」
「かなりの上役なんだから、何かしら思う所があったんだろう」
「俺も出世していたら辞表出したくないもんな」
「決まった以上は頑張ってもらわないと」
続く議論は俗っぽいものとなる。自称専門家たちはコーヒーを片手に今後の政変に関する議論に移り始めていた。
「これ、捻じれるだろう」
「今まで以上に混沌としそうだ。次の議会は野党の連携で与党下ろしか」
「プロアニアに出し抜かれること請け合いだな」
アーニャは静かにカップを置く。雑音の中から投票に関する意見に耳を澄ますうちに、状況が鮮明になっていく。
これまで投票率の低かった若年層の投票率が上がり、投票行動に大きな変化が生じていること。また、野党議員の議席率が高くなる目算が出ており、貴族院との間で議席率の捻じれが生じること。
これらを総合すると、以前よりも議員同士の足の引っ張り合いが激化する恐れがある、ということである。
(思ったより厄介なことになっている……)
アーニャはすくりと立ち上がり、会計をしようとカウンターまで移動する。
「有難うございましたー。……あれ?」
店員が急いでレジスターの前に立つ。顔を上げ、アーニャの顔に釘付けとなった。
「パパラッチが怖いから」
アーニャが人差し指を唇に乗せると、店員は小さく頷き、即座に会計を済ませる。彼女はお釣りも受け取らず、コートについたフードを深く被り直し、足早に立ち去っていった。