‐‐1896年夏の第三月第一週、カペル王国、ブローナ2‐‐
カペル王国の財政について、有意義な記録は殆ど残っていない。景気のよかったアーカテニア王国からの銀の流入さえ、最終的には殆ど王国の貯えからは消えてしまった。王国の権威を維持すること、また広大な国土のおかげで自給自足的な活動が可能だったことも手伝って、貴族社会や上流階級を除いて、殆ど金銭によるやり取りが無かったことも、慢性的な財政難に拍車をかけてきた。
この財政難が最高潮を迎えたのが、現王と同じ名を持つアンリ・ディ・カペル王、それに続くピエール・ディ・カペル王の治世で、その後台頭したナルボヌ領を治めるナルボヌ家の断絶に伴い、その領地の相続権を得たフランソウス家が、カペル王国の経済界を下支えすることとなった。かつて一田舎に過ぎなかったナルボヌ領が大いに発展し、アーカテニア産銀の独占輸入権と貨幣鋳造権を獲得し、河川による外洋への中継地として発展した結果、カペル王家の断絶後に王権を相続したデフィネル家が、フランソウス家への縁談を申し込む。こうして、空前の財政難は、王妃の「拠出金」によって何とか上向くに至ったのである。
そのため、財政が上向き始めたカペル王国にとって、プロアニア軍のブリュージュ占領は、国庫の臨時収入の為に十分に有効な事件であると、アンリは判断したのである。
さて、ブローナ城にある友人の執務室で、アンリ・ディ・デフィネルは代書人であるペアリスのリュカに向けて言葉を紡いでいた。
「……よって、我が国の誇りにかけて、貴国の栄誉あるブリュージュを不当な占拠者であるプロアニア王ヴィルヘルム・フォン・ホーエンハイムより解放し、また同領土を共に保護することをここに快諾申し上げる。我が国土と貴国に、カペラの祝福あらんことを。1896年夏の第三月第一週の第三日、カペル王国国王にしてペアリス公爵、ブローナ公爵、キャッシュレー伯爵、シャングル伯爵アンリ・ディ・デフィネル」
派手な装いのマルタン本人とは対照的に、白い内装の書斎はよく整頓されており、一見不摂生なマルタンが意外にも繊細な舵取りをすることを仄めかしている。仮眠用の大きなベッドの中には大量にナッツのストックが隠されてこそいるが、戸棚の茶器や水汲み用の小樽、サーバ付きのワイン樽などの各種嗜好品については、いずれも壁際に丁寧に置かれている。
王の言葉を書き終えたリュカは、肩を回してコキコキと鳴らすと、気持ちよさそうな溜息を零した。
「陛下もお妃様から文字を習えばいいのに」
リュカは安く済みますよ、と冗談交じりに伝える。アンリは執務中の気難しい強面を崩さずに、手紙を受け取って読み始めた。
「どうにも私には書き物が合わないんだよ」
アンリはそう言うと、前屈みになってリュカの頭の上から手紙の結びに印鑑を押す。昼下がりのブローナには、往来の途中で身動きのできなくなった馬車の列が、船着き場から真っすぐに川沿いに伸びている。
リュカは顔を持ち上げて、すっかり慣れ親しんだ勇ましい男の顔を見上げる。カペル王国が誇る最高峰の魔術師たる王が、文字を書きたがらないというのは、彼にとっては思うところがあった。
「そうは言っても、不便でしょう。文字の巧拙に関わらず、知識として持っておくことに不便はないと思いますよ?」
リュカは手紙をカペル国王相伝の方法で三つ折りにし、封筒に入れる。封書にはやはりアンリの持つ印鑑を用いて蝋で封をする。
「私はミミズの這ったような文字よりも、私の声のほうを信頼しているんだよ」
「陛下もお妃様との交流を望んでおられたではありませんか。そのきっかけにも良いかと思いますよ?」
「……悪くないな。参考にさせてもらうよ」
アンリははにかみがちに笑って見せた。リュカは手紙をアンリに手渡すと、大きく伸びをし、部屋を出ようとする。アンリは手紙を懐に収めながら、リュカに声をかけた。
「リュカ、今日は昼食を共にしないのか?」
「ごあいにく様。身入りのいい『恋文』の依頼が来てるんでね」
リュカは歯を見せて笑う。アンリは首を傾げたが、特段彼を引き留めることはしなかった。
「恋文と言えば代書人の一番嫌がる仕事ではないのか……?」
彼はリュカの殆ど口癖になっている愚痴を思い出す。代金が安く時間のかかる仕事と言って、彼はこうした仕事を嫌っているらしかったためだ。
暫く考え込んでいたが、マルタンの使用人が部屋の前に食事を運ぶ音がしたので、そこで考えるのをやめてしまった。
配膳台の上に置かれた二人分の食事の半分は、結局マルタンのおやつに回されたという。