‐‐1906年夏の第一月第二週、エストーラ領ハングリア、ジュンジーヒード‐‐
二つの川を跨ぐ巨大な橋が、都市の中央に掛かっている。市壁の上で煙草を燻らせたフェケッテは、意味もなくこの大都市を鳥瞰していた。記憶に残っているのは都市の中心に設けられた士官学校で、コボルト奴隷は全てが否応なくその場所へと押し込まれる。
学校を卒業できなければ、コボルトは生活が出来ずに死ぬか、他国の奴隷商に売られるのである。
彼は故郷の苦い記憶を、煙草を噛み砕くことで誤魔化そうとする。蠱惑的な甘みが口の中で滞留する。
煙たいものを吐き出し、口から煙草を離す。太陽を映した川のせせらぎが、町の至る所に反射し、窓が鏡のように輝く。この場所が真珠の都と呼ばれるゆえんである。
彼は煙草の背を叩き、灰を落とす。灰は一度空中で屑となって地面へと落ちていき、胸壁の一部と一体化して見えなくなった。
「あぁー!火事になるやんか!」
彼は聞き覚えのある声を受けて顔を顰める。木製の梯子をよじ登り、ルイーゼが顔を出している。フェケッテは頭を掻き、小さく尻尾を振った。
「なんでお前がいるんだよ」
「知らん。戦争の終わりがけに皆でこっちに移ってきた」
ルイーゼは何とか這い出し、狭間の上を跨ぐ。一度座るようにしながら壁の上で方向を変え、ようやく市壁の上に乗り込んだ。
「疎開か。相変わらずお人好しなんだな」
彼女は無遠慮にフェケッテの隣に座り込む。キラキラと輝く川面を見て、感激の声を上げた。
「綺麗やね」
「正直見飽きたな」
「良いなぁ、私も見飽きるほど見たいな」
フェケッテはルイーゼの横顔を見つめる。川面よりも澄んだ瞳が、朝焼けの空を反射している。
オレンジ掛かった町の神秘的な光景にあこがれる瞳は、彼の目にはあまりにも綺麗に映った。
「……ここは戦争屋の町だ。屋台に出れば野暮ったい飯ばかりだし、武器を売る元コボルト軍人に溢れている。犬臭い町だぜ」
ルイーゼは座り込み、落ち着きなく足をぶらつかせる。フェケッテも胸壁の上に胡坐をかいて、新しい煙草を噛んだ。
「ほら、あそこ。士官学校があるだろ。俺たちは、あそこで振るい落とされたら終わりだ」
フェケッテが川の中心を指さす。ルイーゼの視線がそこへ向かうと、高所特有の強い風が二人の体毛を攫う。ルイーゼの髪は乱れ、フェケッテの毛はごわごわとした毛並みに絡まって先端だけを僅かに揺らした。
「自由とか、平等とか、博愛とかさ。紛い物の綺麗ごとで包んだって、この町はコボルト奴隷の『産地』なんだよ」
確かに。
ヘルムートは、皇帝としては非常に優しく、広い視野を持とうとしている。しかし、どれほど視野を広げても、ピントが合わなければ見えてこないものというのもある。フェケッテはもやもやとした感情を抱えたままで、自分のごわついた掌を見た。
肉球が掌に一つと、指先に各一つ。毛は手垢や泥で固まり、服の裾に点々と返り血の痕がついている。
「汚ねぇ手……」
綺麗な手が欲しいと思った。丸く太い指先ではなく、器用な指先で弓を持ち、エストーラの民の様にヴィオラを奏でてみたいとも思った。彼の手にあるのは、こびりついて固まってしまった汚れと、洗い流しても取れない染みばかりだ。
その手を、土で汚れた小さな手が握った。
「汚れていても、生きていくしかないんよ」
固い豆が幾つもでき、皺の間に泥の色が混ざった手。お世辞にも綺麗とは言えない、白くて短いが太い指先の手。太い指先が、温い体温をフェケッテの掌越しにしっかりと伝えている。
朝焼けがのぼり、太陽が白く染まる。空は青く澄み渡り、陰りの無い白い雲が流れていく。差し掛かった夏の温度に緑が萌え、煮え切らない柔らかい風が重なり合う手の隙間を通り抜けていく。
「目、瞑って」
柔らかい髪が風に靡いて乱雑に流れている。凝り固まった体毛は貼り付いたままで、何かに縋りつこうと必死に足掻いていた。
フェケッテは目を開いたまま、汚れた手や、乱れた髪の美しさにただ見惚れた。湿った鼻先に体温が迫る。彼女の瞑った目に、短いが綺麗に跳ね上がった睫が掛かっている。近づいてくる唇が、フェケッテの大きな口と重なった。
一瞬の静寂の後、ざぁ、と木々が揺れ動く。強い風が吹き抜けて、爆風の代わりに全身をなぞる。湿った鼻先から徐々に、小さな唇の感触が鮮明になっていく。
二つの川が輝く。そこに大きな橋が架かり、その上を同胞やその卵たちが通り抜けていく。それは、それまでフェケッテが見てきた景色よりも輝いて見えた。
唇が離れ、ルイーゼの瞼が開くと、その視線が、見開かれたフェケッテの視線と重なる。みるみる顔を真っ赤にしたルイーゼは、フェケッテの分厚い胸板をぽかぽかと叩いた。
「ああああ、馬鹿馬鹿!恥ずかしいやんか!」
彼女の赤面に合わせて、フェケッテの顔がみるみる火照っていく。耳はピンと立ち、尻尾がわさわさと音を立てるほど揺すられた。
「お、お前が急にやってきたんだろうが!人のせいにするな!」
「分からん方が悪い!馬鹿馬鹿!」
「いや、理不尽だろ!それは!」
ひとしきり口論をした後、二人は腹を抱えてからからと笑った。フェケッテは頭を掻き、尻尾を振る。ルイーゼは赤く染まった頬を膨らませている。
自由とか、平等とか、博愛とか。きれいごとの御託を並べても、この場所は奴隷の産地だ。その現実を並べても、この場所にはヒトが住み、営みを続けていく。深い悲しみや理不尽や、終わりのない恐怖や絶望があっても、彼らはそれを繰り返していくのだろう。その営みを、二つの川と大きな橋が、静かに見届ける。