‐‐1906年夏の第一月第二週、アーカテニア王国、マドラ・スパニョーラ2‐‐
「あ……雨だ……」
黒い雲と激しい雷雨の隙間から、頭上に僅かな光が差したのを、イローナはぼんやりと眺めていた。
修道院の生活というのはとにかく退屈である。畑仕事も聖務も、宮殿とは違って融通が利かない。
まして、雨の日でも読書など、退屈でやっていられない。彼女は腰掛に足を乗せ、出来るだけ高い位置から雲の切れ目を眺めた。
分厚く渦巻く素早い雲が途切れ、刹那にだけ訪れる青空から、光が降り注ぐ。それらは町の雨露を一層輝かせ、華やいで見えるマドラ・スパニョーラの家々を一層飾り付ける。
彼女は片手でペンと紙を引っ張り出し、窓越しの光景を写し取ろうとした。
彼女は読書よりはずっとデッサンが好きだったが、ペンを手に取ったところで動きが止まってしまった。ペンの手触りが、懐かしい記憶を思い出させる。取り敢えず何を書いても喜ぶ父や、落書きの内容を詳しく聞いてくる母。そして、異様なほどに熟達した絵を描く、フェルディナンドの笑顔。
脳裏を過ったものに耐えられなくなり、彼女はペンを置く。白紙の用紙も天高く放り投げ、それはふわふわと浮動しながら頭上へと下りてきた。
(今の私のことはどんなふうに描くんだろう……)
フェルディナンドの得意分野は風景画で、次いで肖像画だった。柔らかな線や装飾を描くのが特に優れていて、宮廷画家も舌を巻く上手さである。そうした彼が瞳に暗い影を湛えた彼女をどう脚色するのか、或いは含みのある表情を与えて描くのか。イローナは考えてもしようのないことが溢れてくるのを止められず、ほんの僅かな時間だけ与えられたチャンスを前に目を瞑った。
やがて、ざぁ、と雨が地面を打つ音が再び響き始める。遠雷も暗い雲の間を貫き、瞬いた衝撃が瞼の裏から少し漏れる。彼女は薄く目を開けて、空模様が戻ったことを確かめた。
安堵したのと同時に強烈な寂寞に駆られた彼女は、固いシーツのベッドに横になる。天蓋は無く、曝け出された天井の白さがくすんだ影の中に沈んでいる。彼女は右手でシーツの上を撫で上げたが、そこにはシーツの皺だけがあった。
「あの子も置いてきちゃったな……」
今更になって、彼女は自分が何もかもを置いてきてしまった事実に驚いた。やがて瞼を閉ざした彼女は、そのまま静かに寝息を立て始めた。
降り注ぐ雨が留まっていた雫を地面へと追い立てていく。雫は弾け、地面に吸い込まれた。
高い屋根と、植物が育つ植木鉢とが作る彩の町に、石畳の溝を洗い流すように雨水が流れている。雨粒は跡形もなく消え去り、やがて泥の露出した地面に至り、泥濘の中へと吸い込まれていく。
彼女は寝苦しさに寝返りを打つ。
全ての命が最後には砂粒へと帰るというのは、東方の思想であろうか。彼女の愛した者すら、土に還り、面影さえ失くして忘却へと浸み込んでいく。やがて烏合の衆の一つとなって、土の奥深くで混ざり合いながら次の朝日を待つ。
‐‐失くしてしまったものが忘れ去られ、壊れてしまうのならば、その命に一体全体何の価値があるのだろう?‐‐
イローナは一人、肩を震わせた。滴り落ちる雨と、轟く雷に怯えながら。自分さえ、ほかの大切な誰かさえ洗い流してしまうものに怯えながら。