‐‐1906年夏の第一月第二週、アーカテニア王国、マドラ・スパニョーラ‐‐
「カペル王国では滅多に見ない雨量だが……」
フランツは修道院の一室でぽつりと呟いた。雨季に差し掛かったアーカテニアの空模様は機嫌が悪く、首都や富を運ぶ港町は激しい雷雨に打たれている。湿った空気が町全体を仄暗く演出し、晴れた日にベランダに並ぶ洗濯物も、ここ数日は見られない。
晴耕雨読などとは言うが、今のフランツはまさにそのような暮らしを続けている。晴れた日にはかつては貴族として郊外の農民に任せていた仕事を請け負い、夕方には力尽きて倒れる。そして雨の日にはミサを手伝った後、書庫に潜り、自室に籠って読書に浸る。サビドリア含む修道院の人々は聖務に熱中しているし、ここはカペル王国で言えばアビス教皇庁のようなもので、多くの参拝者が訪れる。彼は連日自室に籠って参拝者を避け、あくまで俗人としてこの場所で日を過ごすように努めた。
というのも、彼にとってアーカテニア人の篤信は、狂信と言ってよいほどのものであったためだ。毎日参拝をし、収入の半分以上を寄進する者もいる。勿論遺言では寄付を忘れず、信仰のために労働をしているといっても過言ではない程だった。
彼らと深く付き合っていては軍資金の貯蓄はおろか、還俗さえもままならないだろう。
潮風と湿度の二重奏が、汗まみれの彼の肌を撫でる。
そしてもう一つ、サビドリアの本性、アツシ・アリワラについての文献も、蒐集しなければ安心できないというのもあった。
ムスコール大公国の古い文献から始まり、様々な脚色を付けられて伝えられている異端審問官アツシ・アリワラの伝承だが、共通する記述は「ムスコール大公国の八等官(或いはムスコールブルクの都市官僚)」に拾われ、「ユウキタクマ博士」との異端審問裁判を争ったというものである。これらは彼の主要な業績であって、学者には嫌われ聖職者には好かれる要因にもなっている。
ただし、長い読書のうちに、少なくとも彼は約束を反故にせず、必ず守ることは信用してよいように思われた。
彼の魂は良くも悪くも、聖職者としては敬虔な部類に入り、過激で苛烈な拷問をする存在ではあったが品行方正でもあった。
彼が最終的にアーカテニアに定住し、死霊魔術を用いて生き繋いできたのも、ここが居心地がよかったためであろう。少なくとも、フランツはそう信じていた。
(アーカテニアにおけるアツシ・アリワラは善良に、ウネッザやムスコール大公国の文献に言及される彼は悪辣に描かれる)
彼は書庫から書き写した文献を整理して物思いに耽る。淀んだ雲の隙間から、雷が遠くに落ちた。
白い瞬きに目を逸らすと、フランツの視界にサビドリアの足元が映る。彼は慌てて持ち込んだ文献を仕舞って苦笑した。
「神慮めでたく、フランツ様。隠される必要はありませんよ。隣人のことを知りたくなるのは致し方ないことです」
サビドリアはそう呟き、フランツの手に庇われた書籍のタイトルを覗き込む。彼は満足げに頷き、視線だけを彼に寄越した。
「ふむ。酷く懐かしい出来事を掘り返すのですね。少々気恥しい」
彼はそう呟くと、書籍一つ一つを個別に指さして囁いた。
「それに書いてあることは嘘、それに書いてあることは真実です」
ウネッザ、ムスコール大公国の文献を真実と零した彼は大仰に目を見開いてフランツの顔を覗き込む。清楚な含み笑いは、あまりにも不気味であった。
「な、何故わざわざ私に悪印象を与えようとするのですか」
「より事実に近い記述が多いから、当然のことですよ」
「ですが、これは……。あまりに、嗜虐的と言いますか」
「そうであることは貴方にも明かしたはずですが?」
サビドリアは首を傾げる。フランツは思わずめまいがして、眉間を押さえて唸った。
「貴方というお方が良く分からないので尋ねますが、体裁というものを整えようとは思われないのですか?その嗜好では内心がばれては命も危ういでしょう」
「明かした時は相手が取り乱す姿も見れますし、万が一には別の体に乗り換えればよいだけです。何をそんなに恐れる必要があるのです?」
フランツはじっとりとした目つきで彼を見つめる。当のサビドリアは悪びれる様子もなく、懐かしそうにウネッザで書かれた文献をぱらぱらと捲った。
「ユウキタクマ様は良い戦士でした。彼の意識が飛ぶ際に見せる青い炎、鮮烈な死の恐怖への感覚……思い出すだけでも胸が躍る……!」
まさにその場で見たかのような臨場感で、サビドリアは恍惚とした表情を浮かべる。蕩けた紅い頬が下り、両の手で覆われる。はち切れんばかりの狂気に満ちた笑顔は、フランツの全身に鳥肌を立たせた。
「そ、そうだ。サビドリア師。カペル王国復活のために協力して下さるのでしょう?どのような下準備をされるおつもりですか」
サビドリアは穏やかな表情を取り戻し、顎を摩りながら積まれた書籍を眺める。口の端で微笑む姿は優雅で、直前の狂気じみた姿が嘘のようだ。
「毒を以て毒を制すとは言いますが、ヘルメースがしたように、元手なしで黄金の杖を賜るのが宜しい」
「へ、ヘルメース……?」
フランツは聞きなれない言葉を復唱する。細長い指先が彼の前髪を払った。
「いやなに、眼と眼を繋げるのは容易いことです。ウネッザを抑えられているのが少々厄介ですから、先ずはそちらから」
フランツが首を傾げても、彼は柔和に微笑むばかりである。次の落雷が近場に落ちると、微笑は突然暗い影を帯びた。
「それと、やはりメイン・ディッシュは最後に残しておきたいものです。デザートも用意して余韻を愉しむのも抜かりなく……」
彼はぶつぶつと呟きながら、さっさと聖務に戻ってしまった。
取り残されたフランツは両手を抱いて、身震いを抑えようと試みる。僅かの時間ではあったが、町には束の間の陽光が射した。