‐‐1906年春の第三月第二週、プロアニア、ゲンテンブルク2‐‐
「今日も変わりないようで何よりだ!しっかり励むように!」
霧深いゲンテンブルクの工場群に、ひと際大きくはきはきとした声が響いた。
若き海軍相エーリッチ・シュミットは、背筋をピンと伸ばして首都の様子を巡視していた。水兵時代に叩きこまれた礼節と威勢の良い挨拶は、政府の重鎮が来たと工場の外に顔を出した取締役や、政界にコネを作ろうと手を揉み現れた資本家たちを驚かせた。工場内で業務を余儀なくされる下級労働者たちは、普段は偉そうにあれこれと指図をして現場を乱す上役たちが面食らっている様に、笑いを押し殺すのに必死になっていた。
エーリッチは取締役と海運に関する問題や国防に関する問題を話していると、自分が業務を遂行しているという手応えを感じる。
彼はこれまで実直に軍務を全うしてきたが、いざ上役となり、戦争が終結してしまうと、鍛錬以外に何をすればよいのか良く分からないでいた。一先ず上司であったラルフの教えに従い、民を守り正義に努めるべく、民衆の言葉に耳を傾けることとした。これが彼なりの精一杯な業務であったが、彼に出来ることは殆どなく、ほかの閣僚たちに話を回しては空返事で返されるのが常であった。
彼は結局市中の工場を半日かけて周り、自身のデスクに戻る。数枚の紙切れが王から回されてきており、そこにサインを書き込むことで、仕事納めとした。
彼は空の、整頓された机上を眺めながら、ラルフ程信頼されていないことに一抹の寂しさを抱いた。
「あの人は、もっと仕事が出来たのだろう。私も頑張らなくては!」
彼はそう呟き、サインを終えた紙を王に届けるように使用人に渡すと、仕事をしている風を装って白紙の用紙に戦陣訓を書き始める。
プロアニア軍の基本的な訓戒であり、業務上必須の知識として叩き込まれたものだ。
暫く書き続けていると、定刻を告げる鐘が鳴る。彼は満足げに笑みを浮かべ、右に行くほど下へ傾いていく戦陣訓を折り畳み、伸びをした。
彼は荷物を纏め、コートを羽織ると、殺風景極まりない執務室を意気揚々と飛び出して帰路に着く。先輩である閣僚達に軍隊式の威勢のいい挨拶をしつつ、シルバーの車両に乗り込んだ。
煤煙の立ち昇る工場群が吐き出す煙を徐々に弱めて、終業準備を始めたことを知らせる。彼はエンジンをかけ、リズミカルにギアを変えて発進する。車窓が切り取ったオレンジの明かりの下では、なで肩の大人たちが背中を丸めながら帰路を急いでいく。彼らにサイドミラー越しに敬礼をしたエーリッチはそのまま自宅のある集合住宅へと帰っていった。
エーリッチが去った後、アムンゼンは慎重にエーリッチの執務室へと乗り込んだ。キャビネットの一番下段には鍵が掛かっていたが、彼は事前に用意したスペアキーでこれを開け、中にファイリングされた書類を片っ端から確認していく。
黴臭く古いものは、エーリッチの前任であるラルフ・オーデルスローが残した詳細かつ丁寧な報告書である。そして、真新しい白紙の紙を挟んだ最新の枠線ノートを開くと、中から紙片が地面へと落ちていく。アムンゼンはこれを拾い上げ、慎重に内容を確認し始めた。
しかし、彼にとっては若き日の懐かしい記憶を思い出させるようなものしか記されていなかった。
(戦陣訓じゃないか)
アムンゼンはメモ用紙を確認し終えると、それを乱暴に折り畳んでノートの中に挟む。暫くほかのファイルを確認しては一つ上にある引き出しを開け、再びこれを繰り返す。アムンゼンは驚くほど綺麗な彼の作業机に、思わず深い溜息を零した。
「こう、改めて確認すると、オーデルスロー閣下がどれだけ優秀だったのかが分かるな……」
彼は虚しく反響する自分の呟きにも嫌気がさし、最後の引き出しまでを確認し終えて再び深い溜息を吐いた。
彼は確認作業を終えると、暫く空の作業机を見るともなしに眺める。やがて室内をゆっくりと回覧し始めた。
訓練用の小銃や銃剣、模造刀、鍛錬用のゴムバンドなどが乱雑に置かれている。
ラルフの頃から変わらずに置かれている書棚には触れられた形跡はなく、彼が船の構造や軍略にさほど関心がないことを如実に示していた。
床の上には絨毯代わりの体操マットが置かれ、アムンゼンはつい靴を脱いだ黒い靴下を履いた爪先で、マットの感触を確かめる。エーリッチの気質によく合った硬質のマットであり、彼はふと下の階から上階で暴れる音がするという苦情を聞いたのを思い出した。
(まぁ、あまり期待はしていなかったが、オーデルスロー閣下が恋しくなるとも思わなかったな……)
話ができる人が一人減ったことをアムンゼンは今更になって思い知った。フリッツは幾らか話も分かるが、やはり専門が全く違う。だからと言って、エーリッチのようでは話にならない。
(エストーラのベリザリオか、ジェロニモかを引き抜きたいくらいだな……)
彼は海軍の未来に一抹の不安を覚えつつ、重い足取りで歩き出した。