‐‐1905年、冬の第一月第三週、ムスコール大公国、サンクト・ムスコールブルク‐‐
今回、ショッキングな描写がありますので、苦手な方はご注意ください。
大いなる歴史が動く時とは、真実には一つの政治が終わる時である。旧ムスコール大公国を統治してきたムスコール大公家は、度重なる暗殺未遂を経て政治を家臣たちに託し、宰相が実権を握るようになる。やがて宰相は有権者による投票によって決められる、議員の中から決められるようになり、ここに国民の主権が誕生した。
国民の主権の時代が終わると、果たして何が来るのだろうか?絞首台に立つシリヴェストールには、そんなものは到底想像もできなかった。
かつて、ウラジーミル逃亡事件の折に、当時の宰相ヤーキム・ルキーチ・ローマノヴァが処刑の憂き目に遭った際には、プロアニア王国へ亡命していたエストーラ第三皇子エルド・フォン・エストーラによって助けられたが、彼の周りには、そのような酔狂な者は一人もいなかった。
いや、彼自身がそれを拒むかのように、あらゆる悪辣の限りを尽くしたのであった。今日も袖の下には、大量の紙幣が詰め込まれていた。
公開処刑だった当時とは異なり、人道化の道極まった現在の大公国では、非公開の処刑が常識となっていた。
その場所はあまりにも静かで、無機質な個室である。高い段差と傾斜の大きい階段があるだけで、ほかにあるのはぶら下げられた縄だけである。
もちろん彼を責める声もなく、曇り硝子の向こう側に複数の人の影が見えるだけである。シリヴェストールは不思議なことに、目の前にぶら下がる縄を首に掛けられても、心はひたすらに凪いでいた。
「シリヴェストール閣下。言い残すことや、気掛かりなことはございますか?」
曇りガラス越しにいる執行人達の事務的な声が響く。シリヴェストールは袋をかけられた顔を声のする方(それはスピーカーのある方向であったが)へと向けて、穏やかな口調で返した。
「この国の将来のこと、私のような凶行に狂う宰相のないこと、それが気懸りではございます。何せ、ご友人がそれでは、ヘルムート陛下があまりにも気の毒ですから」
執行人たちは顔を見合わせる。シリヴェストールの心は完全に凪いでいたが、果たして彼の名誉のために書き残すべきだろうか。
「……では、言い残すことは?」
結局、彼らは一人として記録に情報を残さずに、彼の最後の言葉を傾聴する。送り出す者としての彼らは、ただ粛々と仕事をこなさなければならない。
送られるシリヴェストールは、暗闇となった視界の中で、僅かな光の影を見つめながら答えた。
「私は罪人だが、それはあらゆる公国民の幸福と願いをかなえようと試みたからです。それ故に貴方達は罪人であり、私と同じく罰を受けるべき人です。いみじくも罪を逃れた人々も、私からの贈り物を受け取って下さったようで、何より安堵しております」
シリヴェストールは言葉を一度区切る。乾いた唇を舐め、腹の前で縛られた両手の拳に力を籠めた。
「しかしながら、新たに宰相に就任されるお方は、あまりにも気の毒なことでしょう。その御仁には、くれぐれもお伝え下さい。『公国民を幸福にしたとて、待っているのは破滅だぞ。やるだけ無駄だぞ、こんな仕事は』と」
執行人は再び顔を見合わせる。やはり彼の名誉のためには言葉を残すことは憚られた。
しかし、一人の執行人が一字一句間違えることなく、彼の言葉を記帳する。流れる筆の小気味良い音が、長い言葉を区切りもつけずに記しきった。
シリヴェストールがそこに行くことを暗示するかのように、やがて時計の針が中天を指さす。
一同は唇を引き結んだまま頷く。執行人たちの手が、目の前にボタンに添えられた。
「刑を執行します。どうか、良い旅を」
「有難う。袖の下にはたっぷり運賃も用意しておりますので」
主な出来事
ヘルムート帝の国内巡幸(地に額をつく旅)
プロアニア・ムスコール大公国の同盟関係解消(冷戦開始)
プロアニア政府、宇宙開発構想の発表
ムスコール大公国内で、ヘルムート帝の処遇について世論が分裂(戦後処理問題)