‐‐1905年秋の第三月第一週、ムスコール大公国、サンクト・ムスコールブルク‐‐
ムスコールブルク駅のホームは、収容所から帰還する兵士や公務員たちの家族と、報道官らによって埋め尽くされていた。
背の低い市壁の一部をくりぬいたような格子門が開き、機関車が汽笛を上げて駆け上がってくる。それは、緩やかな傾斜の石橋の上に、分厚い水蒸気を噴き出しながら、駅のホームに停車した。
帰還した人々の家族を押しのけるようにして、報道官達が一気に乗降口に群がる。怒号とも悲鳴ともつかない慇懃無礼な言葉遣いで、下車した人々に向かって「収容所の様子」を質問する。
「今のお気持ちは?」
「政府に対して思うところは?」
「自分達が何をしたのかは理解していましたか?」
あらゆる質問が重なり合いながら、彼らは無言を貫く労働者たちにマイクを突き付ける。家族が報道官の背後で非難の声を上げているのを、アーニャは静かに聞いていた。
無言の行列に対する報道官の言葉遣いが徐々に荒くなる。家族は先に駅のホームを降り、混乱のない場所へと逃れようとしていた。
激しい質問攻めに、険しい表情で口を噤む人々は、足早に駅を降り、自宅のある市街地へと繰り出そうとした。
報道官達の行列が、彼らの後を追っていく。取り残されたアーニャは、終着駅で忘れ物の確認が始められた機関車を、じっと見つめていた。
暫くして、電車から身なりのよい男が降りてくる。幾らか痩せた様子ではあったが、健康状態に問題はない。
「レフ!」
アーニャの声に振り向いたレフは、左手を挙げて手を振った。
「やぁ、アンナ。久しぶりに会えてうれしいよ」
「無事だった?何事もなかった?」
アーニャが声をかけると、レフは鞄を下ろして両手を振った。視線はどこか遠くを見つめているようで、アーニャのそれとは交わらない。
「ああ、何というか、大変なところだったよ」
「あんなところに左遷されて、辛かったでしょ?温かいコーヒーでも飲みながら落ち着きましょう?」
「それはいい。君から誘ってくれるとは、とても光栄だ」
どこか上の空のまま、レフは鞄を持ち上げた。アーニャは手を伸ばし、無理矢理鞄を受け取る。大きな汽笛の音が響き、鉄道は整備室へ向かっていった。
町は一面の銀世界となっていたが、住民はまだ薄着で歩いている。ガス灯が規則的に立ち、賑やかに声を掛け合う人の群れがすれ違う様を、レフは慈しむような目で追っている。
石畳は既に見えなかったが、浅い雪の上でスコップを滑らせる市民たちが街路から雪を掻きだしている。そのおかげもあって、市の中心地へ向かう大通りは少しずつ地面の色が見え始めている。
「相変わらずデモ行進はあるの?」
「えぇ、また内閣は総入れ替えだね」
「懲りないなぁ、全く」
レフは壊れたおもちゃの様に声を途切れさせて笑う。隣を歩く人の違和感に、アーニャは鳥肌が立った。
「ねぇ、本当に大丈夫?変だよ?」
「変、か。そうかも知れないね」
レフはそう零すと、毎朝足しげく通ったコーヒーハウスの中に吸い込まれるように入っていった。
アーニャは一度扉の前で立ち止まり、不気味な悪寒に身を震わせる。いつも通りに扉に手をかけて開くと、来店を告げる小さなベルの音が鳴り響いた。
「いらっしゃいませ。お好きな席にどうぞ」
聞きなれたマスターの声を受けて、レフはカウンター席に座る。アーニャもその隣に座り、彼の横顔を覗き込んだ。
コーヒーハウスでは様になる、静かで落ち着き払った笑みであった。しかし、同時に瞳の奥にある暗いものが、どこか遠い場所を眺めているようでもあった。アーニャは身を寄せて、二、三度彼に声をかけた。
「いつもの場所じゃなくていいの?」
「あぁ、今日はいいや」
レフは抑揚のない機械的な声で答える。
「とりあえず、ホットコーヒー二人分、ブラックで」
アーニャは店員に声をかける。レフが正面を向いたまま、小さく礼を言った。
オレンジの電灯で照らされた室内は、どこか懐古の情を呼び覚ます。レフはぼんやりとした瞳を灯りに向け、小さな溜息を零した。
アーニャにはどう言葉を続ければいいのか分からなかった。しめやかで儚げな彼の仕草は、朝のコーヒーハウスが醸し出す雰囲気によく合っていたし、単なる懐古に水を差すのも気が引けた。
二人の前にコーヒーが配膳される。小皿に煎り豆も添えられた。
「レフ、大丈夫?」
「俺は殺してないよ」
「えっ?」
アーニャは思わず聞き返した。唐突な弁明の意味を解しかねたために、顔を覗き込む姿勢のままで硬直する。
レフは湯気の立つコーヒーよりも暗い瞳を持ち上げる。彼の暗い瞳には、過去の出来事や今の出来事は映っていないように思われた。
「俺は、リストに上げられた名簿から、規定人数を順番に指名しただけだ」
「何を言っているの?」
収容所での出来事に関する弁明であることは、勿論アーニャにも分かっていた。しかし、彼の醸し出す雰囲気‐‐心を失くした人形のような、訥々とした語り口‐‐が、彼の内心へのただならぬ変化を物語っており、それがアーニャの知る彼を損なってしまったらしいことに困惑したのである。
「事務所に籠っていれば……コボルト達と会うこともない。月に一度の視察さえ耐えれば、やることはこっちの仕事と一緒だったよ」
抑揚のない声がコーヒーを揺らす。店内の仄暗さも手伝い、レフの瞳は一層暗く、心のないものに変わっていく。
「俺は言われた通りに仕事をしただけで、非難されるいわれはない」
「ちょっと、貴方。何言ってるの……?奴隷だってコボルトは……」
「だったら、殺してくれよ」
レフは低い声で叫んだ。絶叫というよりは、腹の底から湧き上がるものが噴き出したような、くぐもった悲痛な叫びである。
彼は変わり果てた友人に怯えるアーニャの方を向いて、口角を持ち上げる。感情のない淀んだ瞳の中に、全身で溌溂と感情を表す女の姿が映った。
「俺は言われた通りにリストの名前を指図しただけで、それは本当にただの業務だった。もしも、業務そのものが非難されるべきなのだとしたら、俺を殺しておくれ」
彼と出会ってから、彼女の鳥肌が収まる気配がしない。背筋が凍り付き、向けられる暗い瞳の奥で化け物を見るような顔をした自分を見つける。
「自暴自棄にならないで。貴方は疲れているだけ。貴方の今後を決めるのは、あくまで国民よ」
彼女は言い切ってから後悔の念を抱いた。レフは目を細めて、「そうだね」とだけ答える。彼はコーヒーを一気に飲み干すと、二人分の賃金を支払って、店を後にした。