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鉄塔のアエネイス  作者: 民間人。
1905年
222/361

‐‐1905年秋の第三月第一週、ムスコール大公国、タイガ地方‐‐

 全国の集会場で放映された衝撃的な映像は、ムスコール大公国の平和と友愛を重んじる雷の民らに強い衝撃を与えた。プロアニア王国がこれまでに行ってきた凶行に対して、自分たちの行動があまりにも軽率であったことを思い知らされた彼らは、プロアニア王国から与えられた情報にも、疑義を抱かざるを得なかった。


 これまで邪悪な皇帝をその思想の中枢に据えてきた人々は口を噤み、しおらしくなった。一方で、大いに彼らを扇動してきた者の中には、新聞の隅で『プロアニアの許されざる蛮行』というコラムを寄稿し、手のひらを反すように正義の味方となって口を噤む人々を糾弾した者もあった。


 さらに、国内では、報道官達が取材を続けていくうちに、プロアニアからの情報によって作られた一つの施設が、大きな存在感を放ち始めた。


 極寒のタイガ地帯にひっそりと聳える人工物、タイガ第一奴隷保護収容所、通称コボルト奴隷収容所は、奴隷売買等規制法に基づき国内全土から保護されたコボルト達が生活しているとされる施設である。

 ムスコール大公国の人々は、経済界で暗躍するコボルト達を排除し、公国民の雇用を創出した政府に深く感謝をし、何らの疑問も抱くことなく日常生活を過ごすようになっていた。


 しかし、エストーラの現状を知り、邪悪な皇帝像が崩壊した今、収容所敷設の根拠となるリーク情報そのものが正当性を失っていた。人々は彼ら自身を貶めようとする黒い噂に蓋をして、メディアに露出し始めた収容所の存在を頭の隅に追いやることで自尊心を保ち、日々を過ごしていた。


 やがて野党議員によって、『奴隷売買等規制法』へ対する糾弾が激化する。初めは報道官の示唆を仄めかす程度の物だったが、徐々に全容が明らかになると、次回の選挙戦で優位を取るための格好の素材として激しい言及が続けられた。


 その言及によって、シリヴェストールの思惑通りに事が進んでいるということも知らずに。


 長い糾弾を経て、ついに野党はシリヴェストールから、収容所を解放する権限を勝ち取った。それは宰相きっての願いにより、宰相の案内によって一般公開されることとなった。


 かくして、風薫る夏季でさえ苔生した湿っぽい土壌が現れるだけの、陰気で寒々しいタイガの地に、人々は降り立った。デモクラシーの中枢を担う人々が、シリヴェストールへ対する明らかな憎悪を込めた、刺すような目で辺りを見回している。


 タイガの貨物駅には既に分厚い氷雪が積もっていた。この時期には鉄道の運行も不安定となり、現に彼らも何度かの臨時停車を体験して辿り着いている。長旅で疲労した彼らは、先頭に立つシリヴェストールが進むのに従って、獣道のような細い通路を進んだ。


 五分ほど進むと、徐々に鼻を掠める異様な生臭さに人々が不安を露わにする。先頭で彼らを導くシリヴェストールは、慄き歩みを遅くする彼らの姿を確かめて、思わず目を細める。


 苔の生していた大きな丸石を幾つも踏み越えていくと、二つの大きな塀で囲まれた、監獄のような設備が姿を現した。


 背の高い煙突から濛々と煙を立て、塀にびっしりと張り巡らされた鉄条網に白い雪がかかっている。鉄条網の清潔さは、その場所から何者かが逃れたことは無いという、身の毛がよだつような予感を暗示する。

 誰もが吐き気を催すような強烈な異臭と異様な雰囲気に不安を露わにする。彼らの内にあった宰相へ対する強い攻撃性はなりを潜め、短く荒い呼吸と咳き込んだりえずいたりする音がしきりに聞こえ始めた。


 シリヴェストールが声をかけると、門番は扉を開ける。彼は最後の戦場に踏み込むにあたって、彼自身踏み入るのが憚られる臆病心を振り払うために、異臭諸共深く息を吸い込んだ。


 彼は、恐怖と復讐心とが混ざり合った複雑な心境を抱きながら、厳かに扉が解放されるのを見つめる。背後から恐怖と驚愕の悲鳴が上がり、地獄の門が完全に開かれた。


 彼らの経済復興を手伝った、作りかけの生活必需品を抱えて、痩せ衰えたコボルトが歩いている。シリヴェストール自身総毛立ったのは、ごみ処理場のような『火葬場』から立ち昇る煙が漂わせる肉の臭いである。一面の銀世界に、肉球のあるコボルトの足跡が力なく各設備へと向かっていく。


「あっ、あっ……」


 言葉を失った人々が喘ぎ声を上げる。毛は汚れて毛玉を作り、所々掻き毟られて禿げのある、彫りの深いコボルトが、光の無い瞳で喘ぎ声に振り返った。

 硬直していたシリヴェストールが、やっとの思いで呼吸を整え、歪な笑みを作って、訪問者に向き直った。


「ここで、私達はコボルトを『保護』し、『職業訓練』をすることで『社会復帰』を試みてまいりました。その結果、貴方達の生活は潤い、経済復興が成し遂げられたのです」


 一人の女性が流行のファーコート越しに肩を摩る。ごわごわとした感触が、彼女の鳥肌を誘った。


「おや、お嬢さん。いいお召し物ですね」


 彼女のファーコートの色と感触は、振り返るコボルトの体毛によく似ていた。

 彼女は過呼吸となり、顔を青ざめさせて崩れ落ちる。体を震わせ、瞳を揺らしながら、白い息を小刻みに吐き出す。やがて、彼女はそのまま気を失った。


 青ざめた女性が運ばれていくのを、口を覆った男が目線で追いかけていく。


 シリヴェストールは牙を剥き出しにする虚ろな瞳のコボルトに、悪役然とした微笑を返す。天へ昇る灰色の煙が、暗雲と混ざり合って中空で消えていく。

 厩舎のような建物群からは、小さな囁き声が聞こえてくる。コボルト達に伝わる古い歌であり、か細く、音階もなく、残響のように彼方此方から響き始めた。力のない声に当てられて、シリヴェストールを糾弾しようとこの地に降り立った人々が視線を逸らした。


 違う。こんなことは望んでいなかった。こんなことは知らなかった。

 自分たちは善良で、常に正義に則って生活してきたのである。

 だから、この場所も、こうした政策も、全て自分達の責任ではない。コボルト達の虚ろな視線も、自分達に向けられたものではない。


 彼らは必死に思考を巡らせ、五感が訴える恐怖と絶望に耐えようと足掻いた。生活の中で感じたことのない異様なにおい、全身を撫でる冷たい風、寒々しく、破滅を予感させる光景、抑揚のない、力のない虚ろな合唱、唾に混じる腹から上ってくる酸味……。あらゆるものが、タイガの凍てつく風と共に襲い掛かる。


 そうだ、シリヴェストールだ。そもそもこいつさえいなければ、こんな政策は議論の俎上にも上がらなかった。このような非人道的な政策は、シリヴェストールが虚構を受け止め、勝手に暴走して作り上げられた失策であって、自分達にはそれに賛否を入れる機会すら与えられていない。つまり、この政策は発案したシリヴェストールに最大の責任があるのであって、それに賛同した議員が悪いのであって、自分達には何らの責任もない。


 ただ、恩恵を受けただけである。


 参加者たちは、可哀そうなコボルト達を見た。極限の飢餓状態のままで佇む一匹のコボルトを。


「坊やたち、いい夢は見られたかい?」


 コボルトが抑揚のない声を発した。

 分厚い雲へと昇っていく煙が風に吹かれて、雪と混ざり合う。灰色がかった雪は、参加者たちの頭に降り注ぐ。

 参加者の中から絶叫が上がる。それに混ざって、贖罪の声が天高く響いた。


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