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鉄塔のアエネイス  作者: 民間人。
1905年
221/361

‐‐1905年、夏の第二月第二週、ムスコール大公国、国会議事堂‐‐

 身なりの整った烏合の衆たちが、扇形の議場にある議席を埋めている。議長席の下に設けられた速記官用の席では、既に書記官たちが支度を整えていた。

 アーニャは内閣の大臣が着座する特等席の後ろに腰を下ろし、野党から寄せられた分厚い質問状と、与党議員がするべき回答を眺めていた。


 急いで作られた書類には、一文字だけ誤字があり、シリヴェストールが発音を間違えないかと少々不安を抱いた。質問に対する回答は当たり障りのないものであったが、親プロアニア側(つまり与党の敵)となった野党議員の質問状は、支離滅裂の感を拭えなかった。


 彼女も、思わず笑ってしまいそうになる。与党憎しと内閣にぶつけられる石ならば何であれ拾って投げるというのは、この国における野党議員の常套手段だが、悪魔化された内閣の議員は結局、同じように解散後の選挙で当選される。以前にコーヒーハウスで語られていた『いつもの人でいいでしょ』という言葉は、国家の代表には信用が置けないという彼らなりの回答なのかもしれない。消去法で選ばれた与党議員の心境たるや。


 徐々に議席も整いつつある。宰相シリヴェストールも現れ、いよいよ議事堂が賑わい始めると、アーニャは静かに顔を持ち上げて、議長席を見上げた。


 議長は現在、一人ぽつんと座っており、速記官用の席との間にある投票箱を見おろしている。今日の主役はまさしくこの投票箱であり、ここに『邪悪な老帝の運命』を決する用紙が投函される。

 この投票箱は、エストーラ帝国の命運を決めるものでもあった。統帥権剝奪派の議員と、帝国解体派の議員、そして体制維持派の議員が三つ巴となって議席に集っている。シリヴェストールは無論体制維持派であり、少なくない与党議員は統帥権剝奪派乃至は体制維持派である。そして、野党議員の多くが指示するのは帝国解体派、即ち皇帝を処分し、爵位と領地をエストーラ一族から解放することで、小規模なムスコール大公国の傀儡政権を作ろうという派閥である。もっとも、皇帝を処分する点までで彼らの主張は一旦区切られており、その真意は各人ごとに異なっている。つまり解体した同地の支配者を誰の傀儡政権とするべきかについてはそれぞれに思惑があった。


 アーニャは投票権を持たないため、ただその成り行きを見守るしかなかったが、彼女自身は少なくとも帝国解体派ではなかった。帝国を解体した後に成立する脆弱な国家などでは、今や世界の覇者となったプロアニアに併呑されるのが落ちである。

 彼女はそう考えていたので、皇帝の存命は一先ず賛成だが、皇帝の地位に関しては全く関心がなかった。

 象徴君主であれ、統帥権剥奪であれ、体制維持であれ、エストーラという国家が継続すれば良い。プロアニアに併呑されるような弱体化を経ずに、親ムスコール大公国であれば、ひと先ずは王国の拡大に待ったをかけることが出来る。彼女の意見は、その点でのみ一貫していた。


「それでは、会議を始めます。本日の予定ですが、先ずは質疑応答、そして、投票となっております。期日も迫っておりますので、本日付でエストーラ帝国の処分に関する議題を終える予定です。皆様、ご協力よろしくお願いいたします」


 議員が集合すると、議長は原稿を読み上げる。後半の発言はアーニャの手元にある資料にはなく、牛歩戦術を決め込み、ついに期限直前まで議決を引き延ばした野党議員へ対する皮肉であっただろう。


 質疑応答は、質問者の事前質問に対して、首相が応答用の資料の通りに回答するという形式的なもので、いつも通りの野次も飛んだ。アーニャは、誤字の部分で言葉を詰まらせたシリヴェストールがきちんと修正を施したことに安堵したが、実りの無い時間であったことも含めていつも通りであった。


 質疑応答を終えると、議長は進行用の原稿を持ち上げ、老眼鏡の位置を直しながら続けた。


「さて、続いては投票に移りますが、その前に、宰相シリヴェストール閣下より、追加資料の提出がございますので、こちらをご視聴ください」


「そんなものは聞いてないぞ!」という怒号が議席から飛ぶ。アーニャは肩に力を籠めて、膝の上に置いた手を重ねた。新たな娯楽である映画用の装置が議事堂に持ち込まれ、議長席と議員席の間に、分厚く白い紙が広げられる。何事かとどよめく議員たちは、背後の装置に目を白黒させたり、取り敢えず進行にない奇襲に対する非難を浴びせたりする。その声は、ラジオを通して国民にも放映されているだろう。


 室内の照明が全て消灯され、真っ暗になった時、議員たちは自らの頭や首周りを守るように手を回した。大公の暗殺事件は歴史の中で頻発したのだから、それは特別な反応ではなかった。


 アーニャは宰相のつむじを見おろす。彼は身構えたりはせず、堂々たる姿勢で、成り行きを見守っている。かと言って勝利を確信した風でもなく、暗殺事件や強行採決の類を臭わせる仕草もない。


 やがて、装置から白い光が灯り、ジジジ……という摩擦音が響く。明るく照らされた分厚い紙の上で、黒い数字が一秒ごとに放映までの時間を刻んでいる。


 議員たちは手を下ろし、目を見開いてそれを見つめる。3から2、2から1へとカウントが減ると、やがて「スクリーン」には荒野の光景が映った。


 不毛の大地を展覧する映像は、やがて瓦礫の町を映し始める。撮影者たちが道なき道を前進していくと、そこに人の姿が現れた。


「これは、プロアニアによる攻撃によって破壊された、エストーラの小都市、インセルの映像です。この映像はいずれ各地の集会所で放映されるということで、国民も真実に気づくでしょう」


 シリヴェストールの暗い声が響く。無音の映像の中で、一歩進むごとに、議員たちは小さな悲鳴を上げた。


 負傷した人間や、生活の痕跡が灰塵に帰した様が、白と黒の配色によって投影される。


 その中を暫く進むと、何もない地の中心で、地に額をつくエストーラ皇帝ヘルムートと、侍従長ノアの姿が投影された。


 それを見つめる人々は、悲しい表情で涙も零さずに、ひたすら首を横に振っている。丸腰のまま頭を下げるヘルムートに対して、彼らは何らの攻撃的な行動を取らなかった。


「……エストーラ帝国は、以前から凋落の兆しがある帝国で御座いました。激しい宗教対立や、支配地域での独立運動。さらに保守派運動家による破壊活動。ヘルムート陛下の在位直後は、その危機的状況が絶頂まで高まったのです。しかし、当時『余所者皇帝』と揶揄された、ヘルムート陛下の長年にわたる尽力によって、彼は多くの臣民に『善人皇帝』と慕われるまでに至ったのです」


 映像が一度途切れ、次々に敗戦の責任を負って地に額をつく皇帝の姿が映される。時には臣民に励まされ、時には臣民の方から皇帝に頭を下げる。そうした光景が幾つも流れた後、解体された千年城塞、リング・シュトラーセの遠景が映った。

 眠りについていた帝国の経済が、環状道路越しに動き出している。舞台座が民間の出資者によって演奏会場として使われ、帝国の国庫を僅かばかりに潤す。その演奏会で得られた収益は、演奏者らの活動資金を除いて帝国に寄付される。宮殿へと寄付金を運ぶ馬車の姿が映った。


「帝国の臣民は今ある少ない資源で、あらゆる貢献をしようと試みています。今議席に座る貴方達に、もし人の心があるならば、その意味が分かるはずです」


 映像は最後に、貴賤貧富の別なく、リング・シュトラーセを通行する人々への街頭インタビューを字幕と共に映した。


「私達は友人でいられるはずです」

「災害は終わりました。私達は復興の最中にあります」

「陛下を殺さないで」

「皆が、陛下の帰りを待っています」

「ムスコール大公国の人達ならば、必ず分かって頂けると信じています」


 流れていく字幕が、人物の口の動きと完全に合致している。議員たちは呆然とその光景を眺め、映像が途切れて暗闇が戻ってきたことさえ忘れていた。


「ご清聴ありがとうございました。それでは、投票に移りますが、撤収作業完了まで、しばらくお待ちください」


 議長は粛々と原稿を読み上げる。白い紙のスクリーンが下ろされ、機材が議場から運ばれていく。その雑多な物音と共に、議員たちのどよめきが響いた。


 投票の支度が整うと、議員たちは投票箱に列をなす。各々が自分の「信じる」正義を込めた投票用紙を投函していく。


 アーニャは正義を両手で握る議員を見おろした。彼らの手は白い汗で輝き、投票用紙は湿ったことで淀んだ灰色に変色している。彼女はその光景を見て、思わずため息を零した。


 彼女が考えるには、彼らの正義はこうだった。


『ここで帝国解体派に投票したら、次の選挙に影響が出るぞ』


 彼女には議員一同の思惑が手に取るようにわかる。ムスコール大公国における利権をめぐる戦い、それは『被害者となり、同情票を集め、あるいはそれに賛同する』ことによる人気取り合戦である。

 皇帝が同情票を集めかねない今、大衆の心が皇帝に絆される前に、行動を取らなければならなかった。とはいえ、彼らの支持母体へのアピールも抜かりなく行わなければならない。自分への悪印象を避けるために、得意の牛歩戦術も出来ずに、野党議員は穏当な票を投じた。

 一方、シリヴェストールは自分の意志とは無関係に、統帥権剥奪派に賛同を投じる。

 彼の信じる正義が何であれ、この場において彼がとるべき行動も、野党議員と同様だった。穏当で野党の大多数が投じやすい思想であり、その中で最も彼の理想に近いものを選ぶ。それは、シリヴェストール内閣へ対する与党議員の不安と不満に基づく、内部抗争に対する一つの答えでもあった。


 かくして、シリヴェストールは袖の下に大金を隠して運ぶことをせず、彼自身が彼に課した責務を果たしたのであった。


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