‐‐1905年、春の第二月第四週、プロアニア、ゲンテンブルク‐‐
春から続々と旧カペル王国領の農作物が首都に運ばれてくる。その彩り豊かさに国民はいつも驚き、目を輝かせて与えられた賃金から対価を支払った。もはや祖国の繁栄は約束されたも同然であった。
いくらか表情の明るくなった大通りでは、以前と変わらない女性労働者や労働子女が通勤を始めている。服装の改善はなされていなかったが、苛酷ではあるが働き口が出来た事だけでも彼らは安堵した様子で、同僚との愚痴も弾んでいるらしかった。
アムンゼンは猫背の背中を座席の背凭れに預け、宮殿まで続く煤煙の道を眺める。先の見えない道中であっても、労働者の仕事は変わらずそこにあり、先が見えずとも運転手は宮殿までの道を完全に把握していた。
多少速度を緩めつつも、彼を乗せた車は宮殿への道を迷わずに進んでいく。遥かに霞む工場の煙突群が見えれば、風景と同化したバラックの宮殿が目前に迫る。
黒塗りの車が駐車場に至ると、既に閣僚たちの車が駐車されていた。アムンゼンは下車すると、一列に並ぶ自家用車をじっとりとした目つきで眺める。車両の一つを除いて、内閣の顔ぶれは変わらない。まして、これからの時代に、海軍大臣の座席は必要性がないのであって、ラルフの後釜に出る幕はない。アムンゼンが登用したのは、聞き分けのよい誠実な元帥、エーリッチ・シュミットである。長い戦争の中でも、ラルフの指示を律儀に守る彼は、特筆すべき功績は特になかったが、アムンゼンは却ってその点を評価した。
安っぽいシルバーの車は、高級感のある黒い車の中ではよく目立つ。最早見慣れた車体であるため関心も抱かないが、彼が新参者であることを意識させる程度には役に立つ。以前よりも余裕のある彼は、近いうちに彼の顔見せの場も作らなければならないと思い出した。
彼は一つ咳き込み、ハンカチで口元を覆う。彼は浅い呼吸を繰り返しながら、バラックの宮殿へと入城した。
宮殿に入ってすぐ、アムンゼンを待っていたらしいエーリッチが軍隊式の敬礼をする。アムンゼンもハンカチを外し、即座に敬礼を返した。
「本年より、お世話になります!」
「海軍は今や守りの要だ。活躍に期待している」
「ヤー、カンツラー!」
よく教育された野太く大きな声が宮殿に響く。当然、インテリたちの集う宮殿では物珍しく、資料を抱えた官僚がエーリッチに一瞥をくれた。
アムンゼンは彼の背中を諭すように叩き、公開会議室への入室を促す。エーリッチも折り目正しく背筋を伸ばすと、パレードで行進するときのように足をしっかりと上げて、公開会議室へ向かった。
公開会議室に至ると、エーリッチが威勢よく挨拶をするのに応えて、閣僚たちが小さく手を挙げて応じる。人好きのするエーリッチは、既に閣僚の心を十分に掴んだらしい。
アムンゼンは玉座の隣に座り、手元に置かれたレジュメを確認する。今後の運営方針を決めるために、軍事・経済政策、植民地となったカペル王国の経営に関する件、などが記されている。国王ヴィルヘルムが2分遅れて入室すると、閣僚たちは一斉に立ち上がり、最敬礼をした。ヴィルヘルムはいつもの通りに閣僚の後ろを回り、肩に手をかけて耳元で囁く。新人のエーリッチに何かを吹き込むと、彼の威勢の良い返事にヴィルヘルムがかえって面食らった。
その様子に僅かに閣僚の緊張が緩む。王はその後もエーリッチを若干警戒しながら、普段通りの閣僚虐めに精を出し始めた。
王が玉座に座ると同時に、閣僚たちも着座する。国家の命運を決める重大な会議には、報告用の議事を取る役人がいなかった。
「さて、今後についての話だが、もはやムスコール大公国の支援は望めない。国家の運営方針をどのように転換するべきかな?」
ヴィルヘルムは外務相に顎で言葉を促す。外務相は一拍置いて、訥々と答えた。
「カペル王国の首都であるペアリスと我が国の王都ゲンテンブルク間に鉄道を敷き、資源調達を迅速かつ大規模に行うことが出来るようにしましょう。人件費に関しては、カペル王国領の者達を使えば、技術者だけに支払えばよくなりましょう。幸い、かの国でならば鉄資源の産出はそれほど困難ではない筈です」
「折角ならば経済政策に絡ませたいところだね」
ヴィルヘルムは大蔵相に意見を促す。奏上を承った大蔵相は意気揚々と立ち上がった。
「それについては、私に考えがございます。資本家による土地の所有を許可し、カペル王国の流通や生産拠点を中心に投資家による開発を促すのです。資本家から地代も回収できますから、我々にとっても煩雑な管理が不要となりましょう」
「その収入を、鉄道建設にあてれば無駄もありませんね」
外務相が言葉を挟むと、大蔵相は満面の笑みで頷く。ヴィルヘルムは手を挙げて「任せよう」とだけ伝え、足を組み替えた。
会議はあまりにも順調に進む。ヴィルヘルムは機嫌も良く、税収も目算最高額で、戦争の対価としてはまだ物足りないが、間違いなく他国の税収を優に超える。ムスコール大公国と異なり国庫が全て王の権限の下で利用されるため、実質的な税収はさらに莫大なものとなる。
ヴィルヘルムは次々に議題を進めていく。どれも潤沢な資源と税収によって容易に解決する。唯一アムンゼンが挙げた男性の人口比率減少による出生率の低迷だけが問題となったが、これも編入したカペル王国からの帰投兵への手厚い保護と一夫多妻制の容認によって解決を図る方針を定められた。
軍事面については、平和兵器を有するムスコール大公国を牽制するために、報復のための平和兵器とミサイルの開発に注力することが決められた。
かくして、三十分の議論によって重要な国家の運営方針が定められる。置物と化していたエーリッチは王と閣僚の発言に視線を動かすだけで終始笑顔を崩さずにおり、特筆すべきトラブルもなかった。
アムンゼンは期待通りの成果に満足し、エーリッチの更なる躍進のために思考のリソースを割くことが出来た。大勝の成果は経済よりも精神的な余裕に影響を与えたと言える。
それでも終始、フリッツ・フランシウムは顰め面をして、隣に座る科学者の爛々とした瞳を警戒していた。その男は、戦争への貢献が認められ、ケヒルシュタインの兵器開発室から、ゲンテンブルク公立科学研究所の職員へと栄転していた。
平和兵器を基礎とした軍備拡張の方針で煮詰まった議論を終え、再び会議室に静寂が戻った。新たな方針に満足した閣僚達は、次の選挙の為に王に趣味に纏わる話題を振る。
一段落したと胸をなでおろした矢先、ゲンテンブルク公立科学研究所員が手を挙げる。
何事かと再び静寂した議場で、彼は徐に机に手を付いて続けた。
「陛下、一つ質問が御座います」
議場にざわめきが起こる。研究所員風情が王に刺すような視線を向けている。王は玉座に座したまま、首で言葉を促す。男ははっきりとした声でこう言った。
「神の天蓋を撃ち破るのは、プロアニアでしょうか、それとも、ムスコール大公国でしょうか」
フリッツの顔から血の気が引く。いっぱしの研究者が、今や世界の半分の支配者となった国王に、挑発的な言葉を投げかけたのである。
艶のある明るい表情をする研究員、コンスタンツェ・オーベルジュは、意趣返しのように、国王に首で言葉を促す。
研究員は威圧して微笑むヴィルヘルムを、視線だけで糾弾する。
平和兵器ではムスコール大公国の先を越され、航空技術ではエストーラに先を越されたという事実がある。科学先進国であるプロアニアにとって、その事実は揺るがない「汚点」である。それらが同時に起こったヴィルヘルムの治世に、更なる汚点を残す気はあるのか。戦争に勝利し、最高の報酬が国家に齎された今、祖国が技術的に最高の存在であるという証明を、国際社会全体に喧伝する必要はないのか。
ヴィルヘルムは乾いた笑いを零す。彼の手元から拳銃が引き抜かれた。
真っ赤な瞳が、コンスタンツェを睨む。隣に座るフリッツは、今にも倒れそうな青白い顔をしている。
王は拳銃をコンスタンツェの前へ向けて、机の上で滑らせる。そして、机の上に足を乗せ、玉座の肘掛けに肘をついて頬杖をつく。
「無論、プロアニアである」
その時、世界の指先は、初めて透明なヴェールを纏った空へと向けられたのである。