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鉄塔のアエネイス  作者: 民間人。
1896年
22/361

‐‐1896年夏の第三月第一週、カペル王国、ブローナ1‐‐

 カペル王国国王アンリ・ディ・デフィネル(3世)は、他国の君主と比べて非常に頻繁に巡遊をすることで知られている。カペル王国の潤沢な資源や優れた芸術を他国と共有するため、また、国内の封建領主たちとの交流を図るため、と言うのが主な理由だ。

 清流の都と呼ばれるブローナは、王の生家デフィネル家が居城を有する、由緒ある古都である。


 アンリは、手に持った犬鷲(ベルクート)紋の親書を風に揺らし、ブローナ城の八角階段から城下を見下ろしていた。


(プロアニアがブリュージュを占領した……。我が国にとって温和な皇帝が治めるエストーラがブリュージュを治めている事には大きな意味がある……)


 アンリの脳裏には、彼らしからぬ靄のかかった思考が渦巻いていた。ブローナを横切る広大なロンター川には、盛んに中規模帆船が通り過ぎていく。シャトー・ドゥ・ドーフィネとブローナ城を繋ぐための大橋に差し掛かると、帆は折り畳まれて、頑強な石橋の下を潜っていく。


「陛下、何をたそがれておられるのですか」


 声に対してアンリが振り返ると、同じ年頃の男性が、気さくに手を挙げていた。


「陛下はやめてくれ、マルタン。君と私の仲ではないか」


 鬘を着けないままのアンリは表情を綻ばせる。彼にとって、幼少期より長い付き合いのあるマルタン・ディ・ケルナーは、即位してからは相談役のような立ち位置であり、古い時代から続く両家のいがみ合いを感じさせないほど、親しい友でもあった。


 マルタンはアンリの手元に視線を送ると、派手で動きづらそうな服の裾をたくし上げてアンリの隣に立つ。彼と同じようにロンター川の流れを眺めながら、アンリの手元に手を伸ばした。アンリは無防備に風に揺れるそれを、マルタンのほうへと近づける。夜の秘め事を共有するときのように、二人は秘かに手紙を共有すると、即座に手を引っ込めた。


 マルタンが手紙を読む間、長い沈黙が続く。ブローナ城下に荷卸しの騒々しい声が響き始める。湿度の高い風が、アンリの短い髪を撫でた。


「ふむ……。王国にとって益となる選択肢はいずれか。これは実に難しい問題ですな」


 マルタンは火鼠紋のマントを揺らす。やや肥満がちな彼が首と繋がった顎の下を揉むように撫でるさまを、アンリはまじまじと眺めていた。


「言葉を待つ間にいうのもなんだが、また太ったか?」


「気にしていることを言うな。君のようなスポーツマンじゃあないんだ」


 マルタンはそう言うと、懐を探り、アンリに大量のナッツが入った小袋を押し付ける。呆れ顔のアンリはこれを受け取ると、「あやかるとしよう」とだけ言って一つまみ分を口に放り込んだ。


「ブリュージュは戦略的に重要な拠点だ。プロアニアに横取りされるわけにはいかない。アンリ、お前も知っての通りだが、臆病者のヘルムートではたとえエストーラへの返還が成ったとしても、とても守り抜けないだろう」


 アンリは黙ってうなずく。ブローナ城下に響く鐘の音に合わせて、船着き場にあった船舶が一斉に散っていく。微かに響く賑わいの声さえ、川面の揺れる音に隠されるようであった。


「ここは我が国がプロアニアに宣戦をし、和議の際にブリュージュの割譲を勝ち取るというのはどうだろうか?ムスコール大公国は間違いなくプロアニアの肩を持つ。しかし実効支配しているのが我々であれば、条約上の西方不干渉の法で正当化もできよう。元より条約を破ったのはプロアニア、その点は彼らも譲歩するよりほかはない」


「それでは、ブリュージュの民はどうする?戦災に次ぐ戦災は、ブリュージュを崩壊させかねないぞ」


「アンリ、いけない。政治に温情は禁物だ。徹底的に戦え、さもなくば、鉄仮面を引きはがすこともできないぞ」


 マルタンは無意識に、アンリの手元に手を伸ばす。アンリはナッツを引っ込めて、一粒を自分の口に放り込む。がり、ガリという咀嚼音に対し、マルタンが非難の視線を飛ばしたのは当然である。


「私なりに思うのは、疲弊したブリュージュを仮に受け取っても、こちらに益はないのではないかと思う」


「ではどうするのだ?陛下」


 マルタンは手紙を持つ手を振る。羊皮紙が風にしなるのに合わせて、冠鷲もゆらゆらと顔を歪ませる。

 アンリはマルタンの腹にナッツを押し付けた。


「領地の守りを担い、その金をエストーラからもらい受ける」


 マルタンはナッツを受け取ると、顔を歪ませて笑って見せた。


「俺の陰気が移ったか?」


 マルタンは鷲掴みしてナッツを口に運ぶ。激しい咀嚼音に合わせて、頬袋が激しく揺れ動く。


「君の賢しいのを学んだんだよ」


 アンリは強面に似合わない爽やかな笑顔で返した。ブローナ城下には、間もなく王の家臣が印籠を運んでくるだろう。


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