‐‐◯1905年、春の第一月第一週、ムスコール大公国、サンクト・ムスコールブルク2‐‐
流氷が未だに残るサンクト・ムスコールブルクの光景は、甲板から降り立つヴィルヘルムに公国の特有の肌寒さを痛感させた。
「この歓迎は少々厄介だ」
彼はムスコールブルクの港に降り立ち、清潔で細い体を強調する細めの民族衣装を身に纏っている。
彼が赤い瞳で弧を描き、柔和に微笑みながら、中年特有の色気を漂わせて歩くと、民衆は彼に手を振って歓迎する。公国の重鎮とは異なり、未だに彼へ対する評価は依然と変わらず高いことがわかり、彼は歓声に応じるべく道すがらの公国民に握手をして回る。気さくな王の演技に感激した人々は、一層に大きな声援で、この逞しく麗しい王を歓迎した。
彼が暫くパフォーマンスに精を出していると、プロアニアの在ムスコール大公国領事が港に現れる。公国民に挟まれて小さな咳払いをする領事に向けて、ヴィルヘルムは外出用の爽やかな笑顔で手を振る。領事は恥ずかしそうに再び咳払いをして、ヴィルヘルムの元に歩み寄る。彼は静かに跪き、王の手を持ち上げると、古い貴族が淑女にするように手の甲に接吻をする。王はそれを受け入れ、公国民の間から再び歓声が響いた。そして、王の手を持ち上げた領事は、大衆たちに頭を下げると、王を宮殿へと先導する。
雪解けに安堵する町には、冬の間に道の端に寄せられた背の高い残雪が積もっていた。石畳の細かな隙間が血管のように雪解け水に浸され、それらはゆっくりと市壁の方へと流れていく。道の端にある雪の上には屋根の影が射しており、日のよくあたる道の中心を、通行人が通り過ぎていく。
「これは君の生涯で最も名誉ある時間だろうね」
外出用の笑顔を浮かべながら、領事の耳元で囁く。領事は黙って頷き、手を引かれるヴィルヘルムの顔が視界に映らないように努めた。
彼の過大な緊張感は腕越しに国王へと伝わり、国王は彼の手を一度離して手首を優しく掴む。領事の皮膚越しに伝わる脈を測ると、王は先程のように領事の手を掴みなおした。
「ふぅん。まぁ、普通かな」
領事の脈拍は非常に速かったが、国王は上機嫌に任せて見逃すこととした。領事は唇を引き結んで恐怖が零れるのを抑え込み、国会議事堂のある宮殿へと向かった。
国会議事堂に到着するなり、領事は深く頭を下げて、逃げるようにその場を立ち去る。暫く柔和な笑みで手を振ったヴィルヘルムは、彼の背中が消えると、赤い目を細めて口の端で笑った。
「寂しいな、今日はお出迎えが来ないようだ」
ヴィルヘルムはぽつりつ呟く。議事堂を往来する議員たちが、拳銃を携えたヴィルヘルムを訝しむように睨んだ。
彼らの視線など気に留めることもなく、ヴィルヘルムはシリヴェストールの待つ迎賓室へと向かう。繊細な装飾の施された壁面には、青いカーテンが束ねられて窓枠の隅で縮こまっている。彼は白と灰色の混ざった遠景を一人楽しみながら、軽やかな足取りで迎賓室の扉を叩いた。
「どうぞ」
シリヴェストールのくぐもった声が響く。ヴィルヘルムは小さく扉を開け、友好的な笑顔で室内を覗き込む。
シリヴェストールは丸眼鏡にスーツという、プロアニア人のような服装で、退屈そうに資料の整理をしていた。
「再びお会いできて嬉しいです!シリヴェストール閣下」
「陛下にそう言って頂けるならば光栄です」
シリヴェストールは難しい顔をしたまま、両手を広げて抱擁を促すヴィルヘルムに応じる。王は彼の視線がこちらに向かないことを悟ると、無用な両手をそっと下ろして上質な毛皮のソファに座った。
戦勝国二か国は、一度は対立の姿勢を見せたが、可能な限り友好な状態を維持しなければならない。冷めた関係性を取り戻すべく、次の協定も成功させなければならない。その為のお膳立てはヴィルヘルムの望み通りに進んでいる。あとは同盟関係を更新するだけで、世界の中心はゲンテンブルクになる。
「閣下、ムスコール大公国の方々はお変わりないようですね。参戦された際には嬉しくもありましたが、彼らの身の安全を祈らずにはいられませんでした」
「お心遣い感謝申し上げます」
丸眼鏡を外し、どこかぎこちない笑顔を浮かべたシリヴェストールの細い瞳が赤い瞳と交わる。互いに相手の言葉を受け入れようとしない、冷め切った視線である。
友好関係に関する契約の更新は、ムスコール大公国の準備した資料を、過不足ないことを確かめてプロアニア国王が署名するという事務的なものとなっている。彼らの友好はそれほど長く、また途切れることなく続いてきた。
ヴィルヘルムはシリヴェストールの書類の山にそれがあるのだろうと、じっと膝に手を置いて待つ。しかし、彼の手元は動かずに、王には全く無関心な選挙用の資料の山だけが机上に積まれている。
「あの、閣下。我が国は貴国との友好関係を望んでいます」
「はぁ」
空返事が返って来る。同盟関係の更新には、手ぶらのヴィルヘルム側が何かを持ちかけることは出来ない。それなのに、シリヴェストールは頑なに、書類の山を崩そうとはしなかった。
「閣下。我々といたしましては、貴国に有益な技術を齎す準備が整っております。その資料の中から、是非とも同盟の合意書を探しては下さいませんか?」
「はぁ」
空返事が部屋にこだまする。シリヴェストールは膝の上に手を置いたまま、陰気な瞳を国王に向けている。
「200年近くの付き合いですよ?我々は家族も同然です。貴方、ご自身が一体何をなさっているのかわかっておられるのですか?」
そう言ってヴィルヘルムは右手を差し出す。シリヴェストールはその手を凝視する。
そして、国王の手を払う音が、室内に響き渡った。
「私共はもう、貴方方の手を取ることが出来ません」
冷め切った細い目が、驚きに目を丸くする王を睨む。一瞬の沈黙の後で、ヴィルヘルムは家臣にするような意地悪な笑顔を作った。
「そうか。馬鹿馬鹿しい、こちらから手助けしてやろうと言っているのに、聞き分けの悪い阿呆は嫌いだよ」
「それはどうも。私も、貴方を信用してはおりませんでしたので」
ヴィルヘルムは勢いよく立ち上がり、机を蹴り上げて退室する。シリヴェストールは崩れた書類をいそいそと回収し、再び次回の選挙対策に勤しみ始めた。