‐‐◯1904年秋の第二月第三週、ムスコール大公国、サンクト・ムスコールブルク5‐‐
ムスコールブルク大学は大公国最高の研究機関であり、文理を問わず多くの碩学を世に輩出してきた。その古式ゆかしい様式の玄関口を見上げ、フリッツ・フランシウムはコートのポケットに片手を突っ込んだまま立ち尽くした。
今よりも若かりし頃、この学堂で自由に研究する学生達を見守りながら、化学の研究会に参加したものである。
彼は右手に提げた鞄の持ち手を強く握りしめる。分厚い皮製の手袋越しに感じる凍てついた空気が、鼻を通って肺の内側まで冷やす。
夕刻の曇天がオレンジ色の明かりに段差を与える。仄暗く分厚い雲と雲との間に、灰色の混ざったくすんだオレンジ色が漂っている。
講義終了の合図が静かに鳴った。学生たちの賑やかな声と、溌溂とした足音が校内を行き交う。化学博士は目を細め、窓から零れる夕暮れに似たオレンジ色に包まれる影が、後ろから抱きつかれたり、肩を回されたり、或いは横一列に並んで笑い合う様を見つめた。
‐‐プロアニアの若者たちがどれだけ目指そうとも、こうした賑やかしさは手に入らないのだろうな‐‐
不意に学院生時代の古い記憶が、彼の脳裏を過る。「それに意味はあるのか」「それが社会に貢献する技術であるという客観的かつ論理的な事実を適示せよ」……死んだ魚の淀んだ瞳のような、視線の群れを向けられて、訥々と研究の意図を伝えたあの日。あの若き日に、果たして彼らのような輝きがあっただろうか?
彼はポケットから左手を取り出し、右手に提げた鞄を持ち替える。学生たちの影に混ざって、教授や准教授の影が通り過ぎる。学生達が挨拶をすると、気さくな研究者たちは冗談めかしたことを話して、学生たちを笑わせた。
仕草の一つ一つが、彼にはチャーミングに映る。子供のような無邪気さと、妬ましいほどの溌溂とした表情が、嵐のように過ぎ去っていく。
講堂の扉が開け開かれ、学生達が夕飯をどこで摂るかについて話しながら、柱の間を通って段差を降りていく。フリッツは右ポケットにしまった手で懐炉を構いながら、ゆっくりと踵を返した。
考えてもしようのないことが、彼の脳裏を過っては消えていく。今の彼に求められるのは、最良の兵器開発と、それを開発するための資金集めだけである。彼はぼた雪に濡れて表面が溶けた雪の上を、慎重に歩き始めた。
とぼとぼと歩く老人の背中を、学生たちは不思議そうに見つめる。大学に用があったのではないのかと首を傾げた学生の一人が、声を張った。
「あのー!何か御用ですかー!」
不意に駆けられた声に振り返る。若者特有の澄んだ輝きを持った瞳が、年老いた男に向けられている。
分厚いコートの内側で鳥肌が立ち、感動のあまりに身が竦む。
科学相はその素性を明かしてはならない。フリッツは山高帽を持ち上げて、気さくな老人よろしく笑顔を作った。
「いやぁ、何。昔が懐かしくてねぇ。私も、昔お世話になったからねぇ」
慈しむように目を細める老人に、学生は静かに相槌を打つ。ぼた雪の中に佇むコートの老人は、胸元に帽子を当て、恥ずかしそうに笑いかける。
「若いのは良いなぁ。私も、あの頃に戻りたいよ」
「今から研究すればいいですよ!いくつでも、研究だけは飽きませんからね!」
学生が明るい笑顔で答える。老人は静かに目じりの皺を窄め、柔和に微笑みを返した。
「飯食えなくなるぞぉ」
学生の友人たちが袖を引く。学生は小さく手を振り、老人に別れを告げた。
学生たちの雑踏となった講堂の玄関口で、老人は山高帽を目深に被りなおす。しんしんと降るぼた雪を肩から払い、フリッツは踵を返して、宿への道を急いだ。
主な出来事
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ムスコールブルク講和会議による終戦