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鉄塔のアエネイス  作者: 民間人。
1904年
215/361

‐‐◯1904年秋の第二月第三週、ムスコール大公国、サンクト・ムスコールブルク4‐‐

 ヴィルヘルムは宮殿の廊下を足早に進む。ムスコール大公国の名家の紋章が連なる階段を、肩を怒らせながら降りていき、兵士が横切るのを押しのけて、エントランスルームへと辿り着いた。


 歴代大公の素顔の中に、写真機で写された現大公の笑顔がある。それは酷くぶれており、長時間の撮影をするうちに、動きが残ってしまったのだろう。

 プロアニアでは、そうした写真機はもはや過去の遺物である。


 アムンゼンは、慌ただしく歩幅を広げて歩くヴィルヘルムの後を早足で追う。猫背の宰相はようやく追いつくと、国王と並走しながら顔を覗き込んだ。

 ヴィルヘルムは顔面蒼白で怯え切った表情をしており、宮殿から逃れようとしているらしかった。


「何をそんなに焦っているのですか、陛下」


「アムンゼン、アムンゼン!ヘルムートには人の心がないのか!?」


 突然歩くのをやめたヴィルヘルムは、アムンゼンの肩を揺する。揺すられたままでも、宰相は落ち着き払った様子で粛々と答えた。


「陛下が何に怯えておられるのか、私には分りかねます。ですが世間一般的に言えば、陛下の方が人の心が無いと思われるかと」


「そういう事じゃない、そう言う事じゃないんだよ!目の前に侵略者だと思っている者がいて!それが自分の親類を殺した!そんな者がいるにも拘らず、あれは怒りに打ち震えるでもなく、怯えるでもなく、普段通りの『善人皇帝』を演じているのだ!そんなことがあるか!人の心が無いとしか思えないだろう!」


 ヴィルヘルムはべそをかきながら喚きたてる。青白い顔色はそのままに、鼻先が真っ赤になっている。

 アムンゼンはヴィルヘルムの手を払い、国王の肩を掴み返す。短い悲鳴を上げたヴィルヘルムに対して、アムンゼンは冷ややかな視線を向けた。


「陛下。人間は自動機械のようなものです。どれだけ細部まで検診を施そうとも、不具合というものはどこかで生じるもの。皇帝は疲弊しており、我々に対して『怒る』という正常な動作が出来ずに、不具合を起こしたに過ぎません」


 彼はヴィルヘルムの充血した目を見つめる。子供のように不安を露わにしたヴィルヘルムは、少しずつ涙を納めていく。


「自動機械……。そうだとも。人間は自動機械のようなものだ。不具合が起きてもしようのないことだ。そうだ……」


 ヴィルヘルムはぶつぶつと呟きながら、重い足取りで城から出ていく。扉の前には、既に用意された黒塗りの車両が待機していた。


 アムンゼンは背中を丸めながら、早歩きでヴィルヘルムの後ろにつく。運転手が後列の扉を開けると、ヴィルヘルムは滑り込むように素早く車内へ籠ってしまった。


「陛下は、一体何に怯えているのだろうか」


 アムンゼンは国王から聞こえないようにぽつりと呟く。ぼた雪が激しく降り、運転手が雪を払いのけて車両に温い湯をかけた。

 エンジン音が唸る。運転手は急いで運転席に戻り、白い息を吐きながら、ワイパーをオンにした。水気を切ったワイパーから逃れた水が、窓の隅で凍り付く。運転手は手に息を吹きかけてから白い手袋を付けなおし、車を動かした。


 アムンゼンはぼた雪が降るのを見るともなく見つめながら、隣で身を震わせるヴィルヘルムの温度を感じる。細いが程よく温い国王の体温は、痛みを伴うほどの熱さでもなく、暖を取るには丁度いいものだった。


「陛下は今、ヘルムート帝についてどう思われますか」


「薄気味が悪い。人間がどうしてこうも凡そ人間らしからぬ正義を振りかざすのだろう」


「と、言いますと?」


「人の言う正義とは無分別な権威の行使に過ぎない。それは私達が律法に従って戦争を起こしたのも同じだ。見方を変えるならば、それは過去又は未来において悪となって現れるものだ。故に悪を打ち倒し正義を振るうことは、本当は永遠に正義ではなく、後に悪となるはずだ。あれは人間の正義ではない。人の心があれほど移ろわないことは無いだろう?移ろうからこそ、私達には社会契約があり、規律となり、王と成り、盤石不変の統治が必要なのだから」


 王は落ち着きなく指を曲げ伸ばししながら答えた。


(ああ、なるほど)


 アムンゼンは短く礼を言うと、黙り込んで思索に耽り始める。

 もしも、この世に完全に正しい人があるとするならば、それは人ではなく神である。王はそれを理解しており、恐怖による支配と侵略、憎悪による侵略と正義の正当化に努めてきた。しかし、その戦いに中々屈しない皇帝は、人ならざる者としか見えず、奇妙に映るのだ。アムンゼンは得心したところで車外を注視する。

 ぼた雪の間を歩く人々が、茶色くごわごわとした毛質のコートを身に纏っている。彼にはそれが何なのか分かっていたが、通行人はそれとは知らずに利用しているのだと分かる。車窓から見える数多の醜態にも、彼らは気づくことなく身を包んで通り過ぎていく。


「無知とは悪ですね」


 それどころではないといった様子のヴィルヘルムは、乱暴に聞き返す。アムンゼンは口をもごもごとさせて、王を視界から外した。


「いいえ……何でもありませんよ」


 黒く艶やかな高級車は、通行人たちの注目を集めながら、ホテルの裏口へと駐車した。


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