‐‐◯1904年秋の第二月第三週、ムスコール大公国、サンクト・ムスコールブルク2‐‐
会場の上座に鎮座するのは、一番若輩者のヴィルヘルムである。
空に帯びたオーロラは彼の視界の外にあり、彼は肘掛椅子で頬杖をつきながら妖艶な笑みを湛えている。
彼の右隣には猫背の宰相が座っており、仏頂面のままで交渉相手を睨んでいる。
閣僚たちが落ち着きなく彼から視線を逸らす中、シリヴェストールは普段とは比べ物にならない毅然とした態度でアムンゼンを睨み返す。
ヴィルヘルムの左隣にはフリッツが座る。かつてムスコール大公国で報告会に参加した柔和な碩学の面影はなく、深い闇を抱えた淀んだ瞳で、上目遣いにムスコール大公国の閣僚を見つめる。殆ど心ここにあらずと言った表情で、虚ろな瞳からはアムンゼンよりもいっそう深い闇を感じざるを得ない。
二つの超大国に囲まれたヘルムートは肩身が狭そうに縮こまっている。彼は発言権を持たず、彼の腕と、ペンだけが、この場所に存在する理由がある。彼の右隣りにいる侍従長ノアは、殆ど飾り物と言って差し支えなかった。
「皇帝陛下も随分と老けられましたね。やはり隠居しておいた方が身のためなのではないですか?」
ヴィルヘルムの言葉に、ノアが反抗的な視線を送る。国王は顔を歪めて笑うばかりで、ノアの視線など歯牙にもかけない。
「それでは、これより講和会議を始めます。各自お考えはあるかと存じますが、今は世界平和のために協調して頂きたい」
調停官であり、ムスコール大公国側に座るイーゴリが声を張る。ヴィルヘルムは足を組み替え、シリヴェストールは姿勢を正す。傍観者として招かれたヘルムートは、銀製の杖を机に立てかけて姿勢を整えた。
オレンジ色の明かりで灯された白いテーブルクロスの上に、メモ用紙が配られる。ヴィルヘルムはメモ用紙を机上で滑らせて左隣に押し付ける。ヘルムートとノア以外の列席者にメモ用紙が配られると、イーゴリが咳払いをして切り出した。
「さて、本日はご多忙の中、サンクト・ムスコールブルクにご足労頂き、誠にありがとうございます。先ず、私の方から、プロアニア王国・ムスコール大公国両国の提案を、読み上げさせて頂きます。ご意見はその後にお願い申し上げます」
ノアは大きく深呼吸をする。広く開放的な議場で、機械時計が静かに時を刻んでいる。
「……先ずは、プロアニア王国からのご提案です。今回の戦争において、大きな被害と共に大きな成果を上げたのはプロアニア王国であることを踏まえ、王国が実効支配をするエストーラ領ブリュージュ、エストーラ領ウネッザ、首都ペアリスを含むカペル王国全域の領有権を確認する。また、従来の王位継承法ではアーカテニア王国の継承権第三位はイローナ・ディ・デフィネル、第四位はウァロー家当主レノー・ディ・ウァローにあるが、アーカテニア王国とカペル王国の歴史的な関係性を鑑み、現アーカテニア王国国王及びその子孫が断絶した場合には、プロアニア国王ヴィルヘルム・フォン・ホーエンハイムまたはその子孫が継承することが正当であることを確認する。そして、エストーラ帝国の不当かつ不平等な経済制裁、およびコボルト奴隷軍人への非人道的な搾取に対する応報として、同帝国の解体を提案し、エストーラ帝国現皇帝ヘルムート・フォン・エストーラを戦犯として死罪とし、相続権者不在のため、その財産をヴィルヘルム・フォン・ホーエンハイムが相続する。なお、旧帝国の内、ハングリア地方を独立国家として承認し、プロアニア王国内の皇帝選挙人はいずれもプロアニア王国所属の貴族として取り扱う。旧帝国領であるスエーツ地方、ノイブルク地方は、その歴史的・文化的背景に鑑み、共和制国家として別途独立させる。以上がプロアニア王国からの提案となります」
イーゴリは一気に提案を読み上げ、ヴィルヘルムへと視線を送る。プロアニア王国側からは補足のないことを示すために、王は手を振って応じた。
ノアが下唇を噛み締め、膝の上に置いた拳を握る。ヘルムートはただ沈黙を守り、潤んだ瞳を伏せた。
「では、我が国、ムスコール大公国からの提案です。我が国は、世界全体の平和と秩序を愛する者として、これ以上の争いが生じない国際関係を、最大の目的として掲げます」
既に関心を失くしたヴィルヘルムは、余裕綽々とした様子で、拳銃を弄び始める。アムンゼンは息を殺し、威圧するようにイーゴリを見つめている。
「そこで、プロアニア王国のカペル王国・ブリュージュの領有を追認したうえで、エストーラ帝国領の処分を我が国国民投票にて決定することを提案します」
ヴィルヘルムは思わず目を見開く。真っ赤な瞳が、シリヴェストールの胸を射貫いた。
「そもそも、帝国は直接的な武力衝突において、一切の侵略行動を拒んでおり、この戦争責任が全てプロアニア王国側にあることは明らかです。帝国の辛抱強い防衛行動は正当なものであって、不当な侵略攻撃をしたプロアニア王国の帰責性は看過し難いものです。よって、現在実効支配するカペル王国領、エストーラ領ウネッザ、エストーラ領ブリュージュの領有権はともかく、プロアニアはエストーラ帝国自体の処分に関して主張をする何らの正当性も有さないものと考えます。そこで、ムスコール大公国が受領した無条件降伏の提案を許容し、その処分をムスコール大公国の有権者である国民に委ねることを提案いたします。無論、プロアニアは実効支配をしていないアーカテニア王国へ対する政治的干渉の権利も有さず、また、エストーラは一切の帰責性がない以上は賠償責任も負わないのであって、両国家へ対するプロアニア王国からの一切の干渉はこれを無効とするべきであると考えます」
ヴィルヘルムは歯を剥き出し、議場に響くほどけたたましく歯軋りをする。手元にある拳銃の安全装置を、リズミカルに付けはずしを繰り返す。
今にも威嚇射撃をしそうな形相を認めて、アムンゼンはすかさず挙手をした。
「お待ちください。この際だから申し上げておきますが、プロアニア王国の貢献があってこそ、エストーラはムスコール大公国を『通して』無条件降伏を受け入れたのです。何らの貢献もしていない、何らの血も汗も流しておられない貴方がたが、どうしてこの講和について言及する権利があるのでしょうか?」
アムンゼンはあくまで理性的な姿勢を守っている。ただ泰然と構え、王の拳銃を持つ手を静かに抑えている。その視線は、ただならぬ覚悟を胸の内に秘めたシリヴェストールに向けられていた。
二人の宰相が静かに睨みあう。毅然とした態度を取るシリヴェストールと、猫背のまま睨みを利かせるアムンゼン。両者は機械時計が鐘を鳴らすのを待つように、刻まれる時間に耳を傾けた。
「では、ご本人に答えて頂いては如何でしょうか?」
イーゴリが睨みあう二人の間に入る。二人の視線はイーゴリを避けるようにヘルムートへと向かった。
(王国は繁栄の絶頂にある。賢明な貴方なら何をするべきか分かるはずだ)
(陛下、どうか私を信じて下さい。私は、この場にいる者のうち、『貴方だけを』守るのですから)
老帝は加齢で異臭の消えなくなった口から、長く細い息を零す。皇帝は苦しそうに唇を湿らせ、静かに語り始めた。
「我が国は、確かにムスコール大公国からの進言を受け容れて、無条件降伏を受け入れました。ですが、プロアニアによる不当な侵略行為については、どれほど疲弊しようとも頑として抵抗する意思を見せたつもりでおります」
「戯事を!エストーラにその様な国力は最早ない!今から前言を撤回し、私に命乞いをしたら、許してやらないでもないぞ!」
ヴィルヘルムの言葉に続けて畳みかけるように、アムンゼンがイーゴリに対して苦言を呈する。
「そもそも、この場においてヘルムート陛下は正当な発言権を持っておりませんよね。彼の発言が事実であれ虚構であれ、それが正当性を持つとは到底思えません」
「これは主張でも意見でもなく、事実確認です。この場における発言権の有無とは関係ありませんよ」
シリヴェストールは僅かに声を上ずらせながら答えた。体はあまりにも正直に、猟犬のアムンゼンに痴態を晒す。それでも、一度敵対の態度を見せた以上は、彼は背中を向けるわけにはいかなかった。
彼は、一時の感情に乗せて、定石を外してしまったことを、内心では後悔さえしていた。しかし、アムンゼンと対峙する彼は、自分の胸の内に燃え上がるものを僅かな支えにして姿勢を整える。アムンゼンはじっとりとした目つきで、シリヴェストールを威圧した。
「なるほど詭弁ですか。ならば我々も相応の対応を取ってもよいと、そう言う事でございますね」
シリヴェストールの額から、一筋の汗が零れる。彼の心臓はもはや限界と悲鳴を上げており、目前には血も涙もない怪物が二人鎮座している。
「……老いぼれの話を聞いてはくれないだろうか」
ヘルムートの疲れ果てた声が響く。機械時計が時間の経過を告げた。
「私は、プロアニア王国にも止むに止まれぬ事情があったことを知っているし、ムスコール大公国にも思うところがあったのを知っている。だが、それは私達も同じだ。敗戦の責任があるとすれば、指導力不足の私に帰責性があったのであって、両国や、まして臣民が背負うべき責任などない。そして、それのために争うことを、私は望んでいない」
つまらなさそうなヴィルヘルムに、老帝が顔を向ける。見た目にはみすぼらしいほど困窮しているにも拘らず、老帝の静かな息遣いに国王は反抗することが出来なかった。
「ヴィルヘルム君。君が強く、君が統治する国に住む国民が勤勉かつ善良であることは良く分かった。……正直に言えば、私はフェルディナンドの命を返して欲しいし、アンリ王陛下やアリエノール妃の幸福な日々を奪った君のことを強く憎んでいる。それでもだ。それでも、前に進まなければ、後ろに散っていった人々に示しがつかないと思う。君は君の信じる道で、国民を幸福にしてほしい。ただ、私は臣民の幸福を願って、シリヴェストール閣下に、臣民のことを託したいと思う」
ヴィルヘルムの赤い瞳が初めて揺らいだ。拳銃を弄んでいた手が銃を仕舞い、皺の寄った眉間を押さえる。彼は項垂れ、散々唸り声を上げた挙句、ついに叫び声を上げて天井を仰いだ。
「ああ、もう!何故貴方たちはそんなに合理的じゃないんだ!もういい、こんな茶番はやめだ!帝国のことなど知ったことか!」
ヴィルヘルムは机の下から天板を蹴り上げると、イーゴリに向かって乱暴に印綬を投げつけた。
イーゴリは暫く呆然として印綬を見つめていたが、シリヴェストールに名前を呼ばれて我に返る。イーゴリは慌ててムスコール大公国側の主張を纏めた講和文書を取り出し、議場にしっかりと伝わるように声を張った。
「では、我が国の提案する条件で講和条約を締結します。皆さま、講和文書に署名をお願い申し上げます」
シリヴェストールの瞳からぼろぼろと涙がこぼれた。彼はイーゴリを席から追い立てて、講和文書にサインを残す。アムンゼンはじっとりとした目つきを、彼の主人に向けた。