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鉄塔のアエネイス  作者: 民間人。
1904年
212/361

‐‐◯1904年秋の第二月第三週、ムスコール大公国、サンクト・ムスコールブルク‐‐

 窓からは雪がちらつき、一面を銀世界に染める都市の姿がある。今朝は霜柱となり、日の出と共に雪解け、泥濘となった地面の上に、薄っすらと白い化粧を塗した都市は幻想的な雰囲気を醸し出し、分厚く暗い雲もその美しさを阻むことは叶わない。ほぼ半季は空模様の見えないサンクト・ムスコールブルクにあって、空に輝くものは太陽と星月ではなく雪とオーロラである。


 シリヴェストールはもう久しく、オーロラを見ていない。彼自身空を見ることは少なかったうえに、最近は散歩や外出の用もなかった。家族にも久しく会っていないし、周囲にある者たちは皆敵のように感じられた。


 しかし、不思議なことに心は凪いでいた。本来であれば、かの王、ヴィルヘルム・フォン・ホーエンハイムとの息が詰まる会合を目前に控えて、強烈な緊張感に見舞われるべきところであるのに、彼は最早何も重苦しいものを感じてはいなかった。


 或いはそれは、感覚が麻痺しただけなのかもしれない。これ以上の政治的な忖度をせずに済むと決めた心は何よりも開放的であり、いつもは腹が立って仕方のない野党議員らの詰問にも心穏やかでいられる。それは『何も生み出さない』と散々非難されてきた『復讐』という虚しい行為が齎す最高の報償であった。


 大会議室の支度は着々と進んでいる。そろそろ開場がなされ、プロアニア・ムスコール大公国の閣僚たちと国家元首が集う頃だろう。彼は温度差で曇る丸眼鏡を拭いて、曇天の首都を眺望した。


 遥か東から市壁を潜って現れる古い蒸気機関車が、公国横断鉄道の終着駅へと到着する。大量の貨物を運び出すのは、彼によって理不尽に迫害されたコボルト奴隷ではなく、彼らと同じ顔を持つ人である。その動きはコボルト程洗練されておらず、時折腰を労わっては荷物を下ろす。遠い春の日になされたコボルト達の貢献を想うと、経営者たちは苛立ちを隠せないだろう。


 4回の控え目なノックがされる。丁寧で気遣いに富んだこの仕草に、シリヴェストールはすぐに心が躍った。


「どうぞ」


 軋みながら、動きの悪い扉が開かれる。シリヴェストールは最高の歓迎をするために作った笑顔を、思わず曇らせてしまった。

 皇帝ヘルムート・フォン・エストーラは、銀の杖で細い全身を支え、今にも倒れそうになりながら、深く頭を下げた。


「ご無沙汰しております、シリヴェストール閣下。お変わりないようで良かった」


 ヘルムートは正しく彼を思いやる穏やかな声をかける。シリヴェストールはどれほど気丈に振舞おうとも隠し切れない疲労の痕に、返す言葉さえ失った。


 痩せ衰え、小刻みに震える体。痛ましいほどに皺の寄った細く、青白い指先。それを支える銀の杖すら、今にも倒れそうに震えている。

 すっかり薄くなった白髪と、曲がった腰。悲しみに明け暮れて真っ赤に染まった白眼と、涙の痕が分かるほど荒れた肌。煌びやかな衣装にそぐわない困窮ぶりである。


「陛下……ご無沙汰しております」


 シリヴェストールは思わず両膝を地面につく。ふくよかで健康的な艶のある手を地面につけ、海老のように体を丸めて土下座をした。


「何を申し上げても取り返しのつかない過ちを犯しました。弁明の余地も、謝罪の言葉も御座いません。私は、あなたの大切なものを奪ってしまいました。自分の臆病のために、沢山の命を犠牲にしました。……傲慢な私の我儘でしかありませんが、私は貴方まで失いたくはありません」


 屈みこむ気力もない皇帝は、小さく首を横に振り、消え入りそうな声で答える。


「……どうかお顔を上げてください、シリヴェストール閣下。貴方や貴国にやむを得ない事情があったことなど、この老いぼれですら良く分かっております。貴方のせいではなく、私が多くの失態を犯したから、こうして多くのものを守ることが出来なかったのです。過ぎてしまった過去は悔やんでも仕方がありません。私はこれからの世代に、明るく平和な世界を残せれば、それで良いのです」

「ですが……」


 シリヴェストールが頭を上げる。彼は彼の行いが、幾千万の賠償を積んでも取り返しのつかない過ちであることを悟った。たまった鼻水を啜りながら、彼は渾身の土下座に戻る。痩せ衰え、年老いた皇帝の眩いばかりの慈悲に、合わせる顔が無いと感じたのである。


「貴方が、私達の仲間や友人の持つかけがえのない命の価値を理解してくれて、私は嬉しい。もしそう思って下さるならば、どうか顔を上げて下さい。平和と繁栄のために、共に戦って欲しいのです」


 シリヴェストールという男は、どこまでも狡い男である。底知れぬ臆病心と狡猾な賢しさを持ち、物の価値を完全に把握できる男である。そして、彼が最上とするものは彼の命と彼の繁栄であった。

 しんしんと降る雪は気温の上向きに合わせてぼた雪に変わっていく。一面の銀世界を薄汚れた泥が汚していく。


 空にカーテンのような緑や赤の光がかかる。揺らめきながら瞬く虹の雷(オーロラ)は、ムスコールブルクの町を見おろしていた。


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