‐‐1904年、秋の第二月第二週、ムスコール大公国、サンクト・ムスコールブルク‐‐
泥濘の道を何とか抜け、ムスコール大公国の豪雪を久しぶりに目の当たりにしたイーゴリは、宰相シリヴェストールの待つ会見室へと向かった。
貸し切りの会見室は簡素な椅子と机が無数に並ぶばかりで、白く無機質な壁に囲まれている。その中央の席に、シリヴェストールは白湯を伴って座っていた。
「閣下、ただいま戻りました」
イーゴリが手短に挨拶をして席に着く。シリヴェストールは白湯を注ぎ、イーゴリの前に差し出した。イーゴリはそれを受け取ると、シリヴェストールのコップと自分のコップを軽く突き合わせた。
「報告書はお読みいただけましたか」
「君の真摯な思いがよく伝わってきたよ」
シリヴェストールはそう答えると、白湯を口に含む。舌の上で湯気と熱湯を絡ませると、それを喉へと押し込んだ。
「閣下の思惑は恐らくわかっています。ですがそれを……大福祉国家を掲げる私達がすることなど、あってはならないことです」
「……私は」
シリヴェストールが答えようとすると、イーゴリは乱暴に立ち上がる。彼の脳裏には、帝国での短い出来事が走馬灯のように駆け巡っていた。
「私は、確かに中立でなければならないと、そう思っています。ですが中立とは、『全てを平等に分配すること』ではありません!」
帝国の独立。イーゴリは真っすぐにそれを目指していた。彼の前に置かれた湯気の立つコップが激しく波紋を立てる。シリヴェストールは再び白湯を口に含み、一度湯気と熱湯を舌の上で転がした。
「イーゴリ君。私はね、帝国を守り、公国民に責任を負わせることを考えている」
「どういう事ですか?」
「……先ずは、帝国の独立を勝ち取ろう。プロアニア王国は執拗に、その領有権を求めてくるだろうが、我々は屈しないということを示さなければならない」
イーゴリは状況が呑み込めないまま、椅子に掛け直す。シリヴェストールが白湯を持ち上げると、イーゴリも促されるままにコップを手に取った。
乾杯が交わされる。白い雪がどす黒い雲の中から降り注ぎ、降り積もった雪が地面を真白に染めている。窓越しのガス灯がぼんやりとした灯りを灯している。浮かび上がる灯りに、雪虫が集って体当たりしている。刹那の命を炎に投じようと、汚れた硝子に体当たりするのである。
喉を通り抜ける温もりの対価として、白い息を零す。イーゴリはコップをそっと置く。
「閣下、説明があまりにも不足しています。私にもわかるように、可能な限り詳細に考えをお聞かせ願いますか」
シリヴェストールはコップを両手で包み、上目遣いにイーゴリを見る。向けられた冷たい視線に思わず苦笑を零した。
「……国民と同じ目だ。心底辟易する」
「お言葉ですが、身から出た錆かと存じます」
シリヴェストールは自ら額を叩いてみせる。秋の温い空気にあてられたぼた雪が地面に浸み込んでいく。
「私は命と引き換えに、皇帝陛下の威信を守り、そして国民に復讐をするのだよ。公人ならば何を言っても良いと勘違いしている間抜けな国民にね」
シリヴェストールは徐に立ち上がると、会見室の電気を灯す。会見室の開場まで、あと10分を切っていた。
シリヴェストールは自分の席に戻り、イーゴリに顔を近づける。
目の下に出来た分厚いくま、たるんで皺の出来た重たい頬、眉を持ち上げるごとに皺の出来る額が、イーゴリの視界を埋める。
笑いを噛み殺した口角は歪に持ち上がり、淀んだ瞳がオレンジの明かりで悲し気に燃えている。
一睡たりとも許されていなかったような病的な青白い顔色と、年齢以上に老け衰えた顔が、長年の労苦を物語っていた。
シリヴェストールは額に三重の皺を作り、たるんだ頬を持ち上げて、総毛立つような不気味さで歯を剥き出しにして笑う。
「あの場所を見せるんだよ、イーゴリ君」
イーゴリは息を呑んだ。狂人のような高笑いが会見室に響き渡る。
暫くして、設営スタッフが入室し、真顔の二人を訝しみながら、小さな会釈を返した。