‐‐1904年、夏の第一月第二週、エストーラ、舞台座‐‐
解放されたオルケストラ劇場に、貧富の別なく人が集います。今朝方イーゴリ調停官に提供された小ぶりの拡声器は、専用の支柱と共に舞台の前に置かれておりました。
人々は予定欄に演目のないことを大層不思議がり、何か重大な報告があるのだと耳打ちをしあっております。舞台座のカーテンから客席を覗き込んだ陛下は、しきりに深呼吸をし、銀の杖から右手を離してはあちこちを忙しなく触っておられました。
「ノア、ノア」
「ここに居りますよ、陛下」
瞼の腫れた顔をこちらに向け、陛下はカーテンの向こう側を見るように私に促します。私は促されるままに隙間を覗き込みました。
エストーラの臣民や、奴隷軍人から退役を果たして帝国の市民権を得たコボルト奴隷達に混ざって、救出した村人たちやウネッザから救助された人々の顔が見られます。長いトーガと長身、黒い民族衣装を身に纏う人々は、臣民のひそひそと語るのを不思議そうに見つめていました。
「私は生涯で今日ほど緊張した日がないよ」
陛下は再び顔中を右手で拭いながら、私に赤くなった目を向けました。
「陛下、私達家臣がついていますよ」
「すま……ありがとう」
私は肩を竦めて笑顔で応じます。陛下は唇を濡らすと、いつにも増して真剣な面持ちで、幕越しに集う人々を見つめました。
やがて劇場に、開演のドラムが鳴ります。シャンデリアの灯が落とされ、舞台の幕がゆっくりと上がっていきます。その中央には光が当てられ、銀製の杖で体を支える陛下の姿が露わになりました。
やつれた臣民は拍手と歓声を送ります。陛下は物憂げな表情を浮かべながらも、強い覚悟を思わせる立ち姿で、ゆっくりと、頭を下げられました。
陛下の頭が上がり切ると、劇場が静まり返ります。臣民は皆真剣な眼差しで陛下のお言葉を待ち、家臣一同が劇場の舞台裏から、陛下を、固唾を飲んで見守ります。一人の老人には不必要な大きな舞台の上で、陛下は口を開いたり閉じたりし、時には弱々しい息遣いだけを拡声器に吹き込みました。過剰な緊張感の中であっても、臣民は陛下のことを信じて言葉を待ちます。良からぬことが伝えられることは、彼らにはお見通しでした。
広い劇場に呼吸の音が何度も響き渡ったあと、陛下の零される吐息がついに終わります。陛下は高鳴る心臓を鷲掴みして抑えながら、消え入りそうな声で語られました。
「全臣民にこの度の危難を終結させる決意を示さなければなりません」
長い沈黙を破り、陛下は簡潔に、敗戦の現実を通告されました。人々は慄き、動揺のあまりに騒めき始めます。
陛下は言いにくそうに唾を飲み込み、劇場に集う人々に視線を送りつつ続けられました。
「多くの民が戦場に倒れ、無辜の人々が腸を曝け出して地面に突っ伏し、敵味方問わず多くの不幸を齎したこの災厄を前にして、私は無力である事をここに認めなければなりません」
騒めきの後には人々の嗚咽が響き始めます。壊滅した小都市インセルのことを想い、致し方ないと首を振る人、どうしようもない絶望に打ちひしがれ、ただ泣き崩れる人、子を、家族を想いながら、一筋の涙をこぼす人……。それぞれの臣民が、この度の災厄に対して思いを巡らせました。
陛下は眉を下ろし、瞳を潤ませながら、事の顛末を臣民に伝えられました。
「今朝方、ムスコール大公国の将軍がしてきた進言に応じる決意をしたのは、これ以上の被害を齎す至上最悪の災害を避ける事、そして、この災害に我が国が飲み込まれるのを防ぐためには、この心優しき北方の民に身を委ねるより他にないと判断したためであります」
その様子は、イーゴリ調停官の渡した拡声器越しに、全国各地の拠点へと放送されているそうです。
時折零れ落ちる涙の音まで鮮明に、苦しみの記憶が伝えられているのでしょうか。陛下は、落涙を抑え込み、観客席に集う臣民へと視線を送ります。弱々しいか細い声ではなく、腹の底から響くような力強い声で続けられます。
「臣民らは耐え難い災厄を良く堪えられました。私がこの全ての責任を負い、臣民には何らの責任が無いことをここに宣言します。私がどうなろうと、構いません。ただ、皆様の平和と安寧を損なう重篤な危難が訪れる事のないように、私はこの戦いに赴く覚悟で御座います」
陛下は恐らく、自分に向けて理解の無いお言葉が浴びせられると思われたのでしょう。陛下は静かに目を瞑り、深く頭を下げられました。
しかし、人々は、落涙を抑え、潤んだ瞳を陛下に向けて、「一致団結して」と、声を張りました。陛下は堪え切れずに涙を零し、顔を上げられます。涙を堪えようと顔を歪ませた陛下に向かって、臣民は大きな声援お送りました。
「陛下のことをお守りいたします!」
「どんな結末であっても、陛下以外に最良の君主などいません!」
「また、ノースタットで元気な姿をお見せ下さい!」
陛下は荒い息遣いで、大粒の涙を零されます。舞台裏にあったイーゴリ調停官は、閣僚たちの方を向かれました。
「帝国に、陛下は必要だということは、必ずお伝えいたします。陛下を救うためにも、どうか手を貸してください」
廷臣は静かに頷きました。劇場に響く声援は、高く澄んだ夏の空まで届き、風に乗って、エストーラのすべての都市へと拡声器越しに届いたことでしょう。