‐‐1858年、春の第三月第二週、エストーラ、ノースタット‐‐
昔から庭いじりが好きだった私は、宮殿でも自宅でも、芝生の手入れや家庭菜園を行っていた。その日も、日課として早朝の宮殿に父と共に赴いて、芝生の手入れを行っていた。
「そうそう、ファストゥール家に男児が生まれたそうだよ」
「それはめでたいことですね。確かあそこには娘しかいなかったでしょう」
父とボーヴォールフ卿は、宮殿に仕事に向かいながら、そんな話をしていた。私はそれを何となく聞いていたように思う。
「アインファクス君は将来父の後を継ぐのだろう?」
「僕は農務大臣がいいです」
そんなことを適当に返すと、父からは多少浮ついた調子の「これっ」という叱責を受けた。ボーヴォールフ卿は大笑して、そのまま二人で宮殿に入城していく。
朝早くから夜遅くまで、父は宮殿に籠ったきり帰ってこないので、数分の通勤時間を共有することも、貴重な団欒の時間だった。
庭師が出勤するまで庭の手入れをした私は、父に帰宅する旨の報告をするべく父の執務室へ向かった。
その日に限って、父は執務室で若き皇帝陛下と談笑をされており、話題は今朝の「ファストゥール家の新生児」の話になった。
「陛下がファストゥール卿であったら、どんな名前をお付けしますか?」
溌溂とした時代の陛下は、恐らく今と同じような、困ったような微笑で唸っておられたのだと思う。
「ジェロニモ、なんてどうだろうか」
「ジェロニモ、良い名ですね。よく勤めを果たしてくれそうです」
ノックをするために猫の手を作っていた私は、その手のままで腕を下ろし、ふっ、と小さく息を零した。
宮殿に最近やってきた皇帝は、朗らかで庭いじりをする私にも挨拶をして下さった。当時のことを陛下が覚えておられるかは定かではないが、私もそれが皇帝だと知ったのはこの時が初めてであった。
「そうそう、ボーヴォールフ卿とその話をしていたんですがね。彼が息子に将来のことを聞いたら、あいつ農務大臣がいいと答えまして」
猫の手を拳に握り替えたのをよく覚えている。父は仕事に誇りを持っていた御仁だから、私にも後を継いでほしかったのだろう。
少しの間があって、黙って立ち去ろうとした時、陛下が不思議そうに聞き返した。
「いいではないですか、農務大臣。この国には美味い野菜も肉も沢山あります。それらをより品質良く、より効率良く生産する為に尽力したいというのは好ましいことではありませんか。私からしたら、臣民は自国の食文化に誇りを持つべきだと思いますよ」
父が何と返したのかはよく覚えていない。多分うまいこと会話を合わせたのだと思う。
「そう言えばお招きいただいた昨日の昼食も大層おいしかったですが、あのお野菜は、一体全体誰が育てたものでしたかね」
その人は、いつも誰よりも、美味しそうに野菜を食べる人だった。