‐‐〇1904年、夏の第一月第二週、エストーラ、ノースタット‐‐
イーゴリは、市壁を取り払った環状道路の遠景を眺めて、在りし日の賑わいを思った。
エストーラ帝国の主要産業の中でも、特にムスコール大公国と縁が深い観光産業は、彼らの建築が持つ独特の美しさ‐‐端正で落ち着いた、しかし機能美よりも深い表現的な美を追求した美しさ‐‐によって支えられていた。ノースタットの環状道路沿いに建つ、煌びやかな商店や劇場の数々も、その面影をひっそりと伝えている。
市壁の外側にあった広大な畑も、麦が頭を垂れ、いよいよ喜びの季節が近づいていることを示す。以前に彼の訪問した時と同じ、端正な美しさを醸し出しながら、首都ノースタットは客人を暖かく迎え入れた。
環状道路に近づくにつれ、遠目では見えない都市の惨状を窺うことが出来る。ゴミ箱に首を突っ込む人、葉物の切れ端を奪い合う顔の焼けた子供たち、ぐったりと店頭に肩を預ける老人などが道端に居り、閉ざされた舞台座には公開延期を告げる古い貼り紙が扉に貼りつけられていた。
首都機能はほぼ停止し、人の往来は殆ど見られない。人が集うのは臨時の食料配給所だけであり、これは環状道路に入って道なりに進むことで視認できた。イーゴリは配給所の前に設けられた立て看板を読み解く。翌日は異なる会場で配給を行っているらしいことが読み解けた。
(プロアニアからのミサイル兵器へ対する一時的な対策だろうな)
イーゴリは大軍勢を引き連れて、環状道路を一周する。市民たちはムスコール大公国の兵士達の巨体に怯え、環状道路の隅によって小刻みに身を震わせる。耳打ちをしながら隣人と語り合うものもあり、空虚な瞳を軍行に送る息絶え絶えの人もあった。
(エストーラ帝国の食料自給率では彼らは見捨てざるを得ないのだろうな)
動けなくなった人々を一瞥し、イーゴリは宮殿を目指して歩みを速めた。兵士達が死にそうな人々を目の前にして、ひそひそと話を始める。
「皇帝が配給を止めているのか?」
「政府に見捨てられたのか?」
「俺たちのせいじゃ……ないよな?」
彼らは口々に不安を吐露し、市民の視線を避けるように顔を伏せる。重装備を抱えた彼らの軍勢は、無防備なベルクート宮の前まで到着した。
噴水の音が止まっており、水が干からびている。イーゴリは以前鳴いていた動物の声が聞こえないことに、眉を下ろした。
「綺麗な宮殿だな」
「臣民があんなに苦しんでいるのに、結構なご身分だよな」
宮殿内の動物園のことなど知らない兵士達が囁き合う。張りつめた空気の宮殿前で、銃剣を構えた衛兵が、イーゴリ一行を制止する。
「お待ちください。陛下に謁見ですか?武器はここに置いていくか、その衛兵たちは同行させないで下さい」
イーゴリは冷めた目で兵士達を睨む。彼らが途端に背筋を伸ばすと、イーゴリもまた小さな溜息を吐いて衛兵に向き直った。
「別に構いません。ですが、陛下にはご予定があるのではないですか?本日は陛下のご予定に合わせてご予約をさせて頂き、後日改めて参上致しますが」
「陛下は貴方とすぐにお話ししたいそうです。先日既に了承済みとなっております」
(我々を信用してくれているのか)
イーゴリは胸が痛んだ。恐らくシリヴェストールの思惑は、終戦後にエストーラ帝国を解体し、プロアニアの影響圏としないために皇帝に対して何らかの依頼をしたのであって、本当に、彼の言葉の通りにエストーラを守る気は無いだろう。それが国益に適う上、内政的にも影響を与えるためだけにそう動いているに過ぎない。
衛兵の言葉に同意し、イーゴリはベルクート宮へと入城する。カペル王国の宮殿群よりは背は低く、長方形の外観をしている。犬鷲の像が正面玄関に睨みを利かせ、訪問者を迎え入れた。
広い庭園の通路にある噴水は、女神の彫像となっており、今はその権威も枯れ果て、憐れにも泉は干からびている。
イーゴリは岩肌の露わになった噴水を観察しながら、衛兵の後ろに付き従う。常緑樹や手入れの行き届いた芝が、今もこの宮殿で人が生きていることを主張している。彼は息も絶え絶えとなった疲れ果てた老人のことを思った。今も、この宮殿で必死に働いているのだろうか。
(顔も知らない臣民のために、よくもそんなことが出来るものだ)
彼はブリュージュでプロアニア兵に対して呟いた言葉を思い出し、思わず苦笑を零す。皇帝の善意もプロアニア人の凶行も、似たようなものなのかもしれない。
衛兵に導かれ、歴代皇帝が鎮座してきた玉座へと招かれる。既に家臣たちが柱の前に佇み、銀製の杖を両手で掴んだ老帝・ヘルムートが腰を丸くして待機している。イーゴリは即座に跪き、頭を下げた。
ブリュージュで見たヘルムートは、今よりもっと若々しく、健康な老人のようであった。しかし、今玉座に座りイーゴリのつむじを見おろすヘルムートは、以前の皇帝よりも威厳に満ちて見えた。それは、『謁見の間』という完成された聖域がそうさせるのかも知れない。
「イーゴリ調停官殿。顔をお上げください」
「恐れ入ります」
イーゴリが頭を上げると、皇帝の隣では侍従長であるノアが、不安げに二の腕を撫でている。帝国の命運を決する最期の謁見になるかもしれないのだから、彼の不安は想像に難くない。
イーゴリは顔を上げると、先ずは皇帝の首元に視線を送った。詰襟には豪華な装飾が施され、胸元に4つの勲章を付けている。紅白の飾緒は勲章と合わせて彼に陸海軍の統帥権があることを証明しているようであった。
あくまで軍の代表者としての、皇帝の仕事であることを、服装が示している。皇帝は物憂げな眼をして、ゆっくりと話し始める。
「先ずはご足労頂き有難うございます。今回は、既に内容を窺っておりますから、早速本題に入ろうと思うのですが……」
皇帝は喉を鳴らし、「失礼」と言葉を区切った。喉に絡んだ痰をノアの取り出したハンカチで拭うと、再びイーゴリの方を向きなおった。
「端的に言って、我々には選択権があまりないように思います。イーゴリ様から、先ずはご意見やご提案を頂けると大変助かるのですが」
「勿論です。大変心苦しいのですが、我々からご提案できるのは無条件降伏のみです。これは我が国とプロアニアとの関係を加味してのご提案で御座います」
家臣の中から咽び泣く声がする。怒りに顔を真っ赤にし、額に青筋を浮かべるのはフッサレル、顔に影を作って直向に前方を睨むジェロニモ、余裕綽々と言った様子のベリザリオ、険しい表情をするアインファクス、そして目を真っ赤にするリウードルフ。一同はただ沈黙し、既に身を委ねる覚悟を固めていた。
イーゴリは無情な言葉を続ける。
「残念ですが、貴国がプロアニアに勝利することは出来ません。良くて爆撃の礫を受け続けるだけでしょう。カペル王国では今、各地で抵抗活動が展開されていますが、徹底抗戦の成果はあまりにも虚しいです。王都ペアリスは大樹と共に枯れ、プロアニア兵によって次々に反抗した者が捕縛されています。幾つかの町は綺麗なまま残っていますが、芸術の都が粉々に破壊されるのはあまりにも心苦しいのです。陛下、どうか無意味な抵抗をやめ、ムスコール大公国に命運を預けて下さい。私ならば、貴国に有利な報告書を提出することが出来ます。どうか、私を信じて頂けませんか?」
イーゴリに出来るのは、ただ意見書を上げることだけである。彼がどれほど願おうとも、エストーラ帝国の未来は恐らく暗いだろう。それでも、イーゴリの心には、ただ一つの熱意が燃えていた。
皇帝は物憂げに眉を下ろし、口をもごもごと動かす。骸骨のように浮き出た頬が、彼が帝国のために身を粉にして尽くしてきたことを物語っていた。
彼は口の中で返答をするのに逡巡し、銀の杖を震わせながら、曲がった腰を持ち上げる。
「我が国は平和を望んでいます。貴方を信じて、託したい」
とうとうリウードルフが泣き出してしまう。ジェロニモは唇を噛み締め俯く。アインファクスは普段と変わらない平静を装いながら、静かに唾を飲み込んだ。
「明日には、臣民にも報告したいのですが、よろしいですか。シリヴェストール閣下へのご報告は、領事館を利用されますか」
「陛下のタイミングでご報告されれば良いかと思います。お言葉に甘えて、領事館をお借りします。いずれ我が国の使節が戻るでしょうからね」
イーゴリは口角を持ち上げる。ヘルムートも静かに頷き、フッサレルが断りを入れて退席する。イーゴリはヘルムートに彼の故郷についての報告を幾つか述べ、謁見の間を去っていった。
謁見が終わると、ヘルムートは自らに課した断食のためにふらつきながらも、老体に鞭を打ち、執務室へと戻っていく。彼の体を労わるように、ノアは彼の右手で老帝を支える。二人が執務室へと戻った後、家臣たちも互いに挨拶をして解散を始める。
家臣たちが仕事に戻る中、ジェロニモは静かに玉座の前に佇み、眩しそうに目を細めている。アインファクスは自分とジェロニモ以外の家臣が帰ったのを確かめると、半開きになった重厚な扉を閉ざして、ジェロニモの元に歩み寄った。
「ジェロニモ様、少し宜しいか」
「えぇ」
「陛下が無条件降伏を受け容れられたが、君はどう思うのだ」
二人は静かに玉座を見上げる。長い沈黙の後、ダン・ジェロニモはアインファクスに向き直った。
「最悪の選択肢だと思います」
一拍置き、彼は難しそうな苦笑を零した。
「皇帝がヘルムート陛下ではなかったならば」
アインファクスの表情がわずかに綻んだ。
「君も、そう思ってくれるかね」