‐‐1904年、夏の第一月第一週、エストーラ、ベルクート宮‐‐
皇帝の執務室に置かれた水晶が、鬱蒼とした森林の中を映す。視界は大きく揺さぶられ、視界の彼方此方に敵兵の姿が確認できる。
「攻勢をかけてきましたね」
ジェロニモとベリザリオが皇帝を挟んで水晶を覗き込む。三人は同じ高さの椅子に腰かけ、ベリザリオは足を組んでいる。机上の陶製人形が、不安げに三人の様子を窺っている。
「これ、ゲリラ戦では防ぎきれないのでは……?私なら、一度シュッツモートの国境線を刺激してみますが」
ベリザリオが足を組み替える。よく磨かれた靴の先端が真っ白な光を反射した。
「兵力を分散させるということですね。悪くないと思います」
ジェロニモは即座に答える。皇帝は二人に挟まれながら、黙って頷いている。その動きを一瞥し、ジェロニモはさらに続けた。
「夜を待ち、森の兵を後退させますか」
ジェロニモは水晶の中を凝視しつつ、広げられた地図の上から、駒を動かす。ベリザリオはその動きを確認し、小さく声を上げた。
「え、後退だけをするのですか?」
「えぇ。戦略上、相手の数の利を生かした侵略を削ぐために、シュッツモート側の戦線を動かして陽動をかけるのは、悪くない案だとは思います。彼らはこれまでで、シュッツモート側の兵力を少しずつ森に動かしていることが分かりますからね」
ベリザリオはヘルムートの肩を叩き、耳打ちをする。ヘルムートは小さく頷き、水晶を撫でてシュッツモートの映像を映した。
水晶は、狭い防塁の上から、先の見えない暗闇だけを映している。時折顔を出す巡回中の敵兵は、凄まじい反応速度で構えられる古いマスケット銃の音に驚愕し、即座に身を隠した。
「あちらはこちらからの攻勢がないことに安堵しているはずです。この隙をつけば、こちらの戦線を一気に進めつつ、敵の戦力を分散させることが出来ますよ」
「そうです。しかし、コボルト騎兵は私達にとって最も貴重な戦力です。あちらははしたな戦力しか導入していません。少しでも、こちらの戦力を失わずに、彼らの戦力を削ぐためには、定石では通用しないのです」
ベリザリオは不服そうに腕を組む。足を組み替え、彼の得意分野に言葉を組みなおす。
「……財源に圧倒的な差がある時、かつ他の協力企業を取り込めない場合に、顧客を奪う方法ですか」
「相手の視界は非常に悪く、地理も正確に把握してはいません。それは彼らが文明の砦だけを発展させてきて、私達のように共有地を管理してこなかった証拠ですが、それは良いとして。私はプロアニアの兵士達が合理的で非常に指示に忠実であることを知っています。彼らの能力を信用するか否かが、この戦略の決断をする分かれ道です」
「私は勿論、彼らの真面目さや聡明さを信用する」
ヘルムートが迷いなく答える。散々残酷な仕打ちを受けてなお、彼の覚悟は変わっていなかった。ジェロニモは視線をヘルムートに送る。やつれ、やせ細った老人の瞳を覗き込み、ジェロニモは微笑んだ。
「陛下ならそう仰ると思いました。では、指を離しますよ」
水晶が森の視界に戻される。ジェロニモが指をゆっくりと持ち上げると、暫くして視界の外から訓練された竜騎兵が馬を駆る音がする。その音がして暫くし、森林の一帯が闇に包まれ始めると、視界の主人が森林を移動し始めた。
あくまで視界は大きくそれることなく、木の一本一本の後ろを伝うように、慎重に後退を始める。進軍をしようとする敵兵の姿が見えなくなるまで、視界は霧深い森の奥へと戻っていった。