‐‐1904年、夏の第一月第一週、エストーラ、ホーストブルク
エストーラ帝国は護衛の兵士が思うよりも科学が発展していたらしく、彼らは竜騎兵に伴われながら「これはこっちにもあるのか……」と少々困惑気味に囁き合っている。古いマスケット銃を片手に手綱を握る竜騎兵は、彼らから時折零れる失礼極まりない囁きに、小さく舌打ちを零した。
彼らは、今後の防衛のために、海軍によって整備された広い土地を興味深そうに眺め、そこに出来るものを予想し合っている。劇場や美術館など、様々なものが挙がったが、飛行場が出来るのだと正解を言い当てる者は遂にいなかった。
一方で、イーゴリは馬の尻尾をぼんやりとした目つきで見つめながら竜騎兵に従う。武装をした兵士達を見た帝国の臣民たちは、少々警戒をしながらも、普段通りに「ようこそ、芸術の都へ」と声をかける。護衛の兵士達もその対応に首を傾げ、気まずい空気のままで彼らは首都へと真っすぐに向かっていく。
イーゴリの関心事項は兵士達の噂話とは異なっていた。彼は兵士達に向けられる警戒心を込めた視線と、普段よりは幾らか抑揚を抑えた歓迎の言葉に耳をそばだてる。彼らは敵兵に石を投げるでもなく、怯えて過剰に避けるでもなく、単なる通行人として彼らを扱った。
そして何より、竜騎兵に気さくに声をかける者たちの声を聞いた。彼らは業務中の竜騎兵に対して、国境の様子について尋ね、竜騎兵も朗らかにそれに答える。イーゴリは市民に極秘事項を打ち明ける竜騎兵の姿に驚いたが、一方で市民たちの信用ぶりにもまた驚いた。
(政治家のせいで戦争が起きた、お前たちがまともな警備をしないからだ、そう言った声は一つもないのか)
祖国との相違に驚く。帝国では、この騎兵達は信頼され、尊敬すらされている。祖国では、彼らの出発に対して外交の失敗や政府の責任追及に利用されている。恐らくそれは、出発直前と何ら変わりはないだろう。
(この違いは何だ……?)
統治者が大なり小なり嫌われるのはどの国においても同様で、兵士が恐れられるのも概ね相違ない。昨今のエストーラ帝国はその点で異常と言っても良かった。
竜騎兵は帝国の紋章と自分の背中にある盾に描かれた紋章を見せ、市門の衛兵に事情を説明する。すると不思議なほど素直に、彼らは都市への入場を認めた。
「今日は長旅で疲れただろう。宿を工面してもらうから、ゆっくり休むと良い」
竜騎兵はそう言うと、兵舎らしい所へと入ろうとする。護衛達は背伸びをしたり、屈伸をし始め、すっかりリラックスした様子を見せている。
「待ってください」
イーゴリが呼び止めると、竜騎兵は鬱陶しそうに顔を顰めて振り返った。彼も銃こそ持っていたが、イーゴリにそれを向けることはしない。
「仮にも我々は敵国の軍隊です。なぜ宿を工面するなど、それほど良くしてくれるのですか?」
「害意の無い敵国の相手は外務官だろう。貴方も身なりは立派だが少し休まれた方が良い。あまり張り詰めると心も壊れてしまうだろう」
竜騎兵はそう言って兵舎へと戻っていく。イーゴリは暫く立ち止まっていたが、引継ぎの兵士に宿の住所を渡され、深く考えることもやめてしまった。
「そうそう、夜の観光についてですが……」
兵士は突然、当たり前のように夜の観光地について話し始める。教会は昼までで、夜は聖務があるのでお断りしたいこと、食事を外で取りたいのであれば次の鐘の音が鳴るまでに済ませた方が良いことなど、簡単な説明をし、「良い旅を」と続けて去っていく。
イーゴリは複雑な帝国の住所事情を鑑みて、兵士達を宿に案内する。全員が宿泊先に辿り着くと、教会の鐘が鳴った。
「微塵も肌寒さを感じない……」
イーゴリは群青の空に向けて呟くと、外套のポケットに手を突っ込んで、再び歩き出した。
エストーラの人々は、眠りにつくのも迅速だった。市街地は寝静まり、夜の店が点々と灯りをともしている。男女問わず若い人々が夜回りをして、見回りの夜警団が一言二言説教をする。
イーゴリは満天の星空を見上げながら、当てもなく狭い街路を散策した。この町は静かな小都市と言った風情で、煉瓦造りの建物や、立派な看板の息を呑むような絵画など、目に付くものはどれも格式の高さを窺わせる。教会はカペル王国と比べれば上品で装飾が少ないが、厳かに聳える尖塔は威風堂々とし、静かに町を見守っている。
イーゴリは歩きながら、すれ違う人の姿を観察する。誰もが飢餓で痩せてはいたが、致命的な衰弱が見られるものは殆どいない。それに、彼らは堂々と敵国国章を描いたポーチを腰にぶら下げるイーゴリのことも特段敵対視しない。ごく普通の観光客にするように、夜の危なっかしさを伝えて茶化したり、客として勧誘をしたりするばかりだ。
郊外には一応畑も現役であり、何とか地産地消が成立しているのかもしれない。イーゴリは中心街の様子を確かめた後、明かりの灯る教会の前で立ち止まった。
今も聖務が行われている教会から、微かにア・カペラの合唱曲が聞こえる。その歌はカペラの結婚で、窓から覗き込むと聖典を片手に助祭たちが歌を歌っている。何ら不思議な光景ではない。
(オリヴィエスやダイアロスの名も歌い上げているのか)
イーゴリには、帝国にとっての敵国の主宰神の名も、読唇術で読み解くことが出来た。彼らは最後まで歌い終えると、粛々と祭壇や長椅子の清掃を始めた。イーゴリは思わず、司祭が彼に気づくほど、彼らの聖務に釘付けになっていた。
司祭は彼の姿に気づいて教会の扉を開ける。祈りの仕草をしてから、彼は申し訳なさそうに眉を顰めた。
「すいません。今日の参拝時間は終了しておりまして……」
イーゴリは一つ頷く。司祭は手で謝罪のジェスチャーをし、そのまま扉を閉ざそうとした。
「あの」
イーゴリの声は夜の町に良く響いた。司祭は扉を開けなおし、目を瞬かせる。イーゴリは徐にポーチを見せて続けた。
「私はムスコール大公国の外務官です。皆様は、その、ダイアロスやオリヴィエスについても歌っておられましたが、我々が憎くはないのですか?」
司祭は小さく唸った後、困ったように笑って見せた。
「我々の信仰に、敵も味方も関係ありませんよ。それに、陛下も仰っておりましたが、プロアニアは飢餓の恐怖によって困惑しているのですし、ムスコール大公国は我々に攻撃をしてまで侵攻してくるとは考えられませんよ。この最悪の災害がはやく収まれば良いですね」
彼はそう答えると、「良い夜を」と続けて扉を閉ざした。
イーゴリは制止する手をそのままに暫く佇んでいたが、そっと手を下ろしていく。
(ああ、そうか……)
‐‐仮に戦争が終わっても、この帝国を、ヘルムート陛下を処罰してはいけない‐‐
イーゴリは土の露出した道を踏み固めるように歩く。彼の長い影が、盛況する歓楽街に伸びていた。その影を、カンテラを片手に見回りをする夜警の靴が踏んだ。
「そこのお方、夜道は危ないですよ。夜盗とか……」
イーゴリはカンテラで背中から照らされ、振り返る。静かに見つめ合ううちに、夜警は腰に帯びたポーチに気づき、咄嗟に警棒の位置を確かめた。
「ムスコール大公国のお方でしたか。どのようなご用件ですか?」
「ああ、いえ。私は調停官で、一応は将軍として首都へ向かっているのですが」
イーゴリは敢えて自分の身の内を晒す。彼自身、声が上ずるほど混乱する肩書きではあるが、夜警は先程よりも警戒心を強め、警棒をそっと手に取った。
しかし、イーゴリが口を閉ざしても、彼は警戒心を強めるだけで、攻撃を仕掛けてはこない。夜の歓楽街で怪しげに佇む、しかも丸腰の、敵国の『将軍』に対して、相手は攻撃を仕掛けてこない。イーゴリは静かに目を細めて笑った。
「ムスコール大公国は平和を求めています。だからこそ、プロアニアよりも先に首都を目指さなければなりません。武器ではなく、貴方達の手を取るために」
夜警は静かに警棒を下ろす。イーゴリは歓楽街に灯る明りを見つめた。
娼館の看板に、急ごしらえの紙で「一時避難受付」と書かれている。カーテンの裏側では、小さな影と大きな影が盃を掲げ合っていた。
「娼館が避難所ですか」
「部屋がたくさんありますからね。今は仕事もまともに取れないそうなので、貸し部屋をしているそうですよ」
「そうですか。先を急がねばなりませんね」
イーゴリは静かに、歓楽街を抜けようと進む。その手を夜警が掴んだ。
「お待ちください。貴方がたは仮にも宣戦をした国のお方だ。それで、もし、首都に辿り着いたとしても、陛下がどんなにご自身を犠牲にしてもいいと言っても、どうか陛下のことを救ってあげてください」
夜警はイーゴリの手に何かを掴ませる。それは、一本の紙煙草で、イーゴリにはその価値が分かると信用したようであった。
「何物にも代えがたい贈り物です。有難くあやかりましょう」
イーゴリはクシャリと潰れた煙草を、大切にポーチにしまう。夜警は「お気をつけて」とだけ告げて、イーゴリの背中を見送った。
夜の歓楽街には、オレンジ色の灯りを映すカーテンの中に、家族の影が幾つも映っていた。