‐‐1904年、夏の第一月第一週、エストーラ・ムスコール大公国国境・ビエスト沼地入国管理事務所‐‐
竜騎兵たちが警備をする国境の入国管理事務所前は、仰々しい雰囲気に包まれていた。雪解けによって作られた巨大な泥濘が、一歩を踏み出すたびに固定させた長靴を埋める。纏わりつく泥土は底なし沼のように不快で冷たく、ムスコール大公国で鍛錬を積んだ国防軍たちは不快そうに溜息を零した。
国境を守る竜騎兵たちがマスケット銃を携えて彼らを呼び止める。戦闘用の装備としては華美な、エストーラ帝国本国の軍人たちである。彼らは乗馬パンツにロングブーツという機能的な下衣を身に着け、白いワイシャツの上を飾る真っ赤なレッド・コートを着込んでいる。コボルト騎兵のように驚異的な身体能力はないが、よく鍛錬された軍人らしい落ち着いた立ち振る舞いで、颯爽と馬に跨っている。
「止まりなさい」
装備では段違いに優位であるはずの公国の兵士達は、どすの効いた竜騎兵の声に身を強張らせた。
馬が嘶きを上げる。狼狽える兵士達の中から、一際身分の高そうな、毛皮のコートを手に掛けた男が現れた。
男は両手を挙げ、自分が丸腰であることを殊更に強調してみせる。竜騎兵は訝しんで片眉を持ち上げた。
男の服装は軍人のそれではない。機能性は勿論、士気高揚を目的とした派手さもなく、またプロアニア兵のように大地によく馴染む保護色でさえない。ただ、一介の文化人を思わせる良質な生地の衣装を身に着けている。
「何事ですか?冷やかしであれば危険なので、絶対にしないように」
竜騎兵はマスケット銃を仕舞い、警告文を書いたビラを手渡した。男はそれを受け取りつつ、「いいえ、違うのです」とぼそぼそと呟いた。彼は腰に取り付けたポーチを見せ、そこにムスコール大公国の国章が記されていることを示す。そして、ポーチの中から手帳を取り出すと、竜騎兵に中身を開いて見せた。
「イーゴリ・メレンチェヴィチ・アラーモヴナ。ムスコール大公国から派遣された、『将軍』、あるいは調停官です」
竜騎兵は片眉を持ち上げる。
「確認を取りますので、少々お待ち下さい」
彼は入国管理事務所の中に入っていく。イーゴリは手帳を仕舞うと、身を強張らせて機関銃を体に貼りつけたままの兵士達に手を挙げて示す。
「相手の明確な攻撃が無ければ、くれぐれも攻撃はしないように。命が惜しいのは分かりますが、私どもは侵略をしに来たのではないので」
兵士達は武器を下ろす。もっとも、イーゴリ自身はエストーラの統率の取れた軍人が、警告もなく攻撃を仕掛けることなどないことを熟知していた。
暫く、泥濘に沈んでいく両足を時折持ち上げるだけの時間が経過する。やがて、竜騎兵は乗馬したままで入国管理事務所の事務員らしい人物を伴ってやってきた。
イーゴリは先程したように、丸腰であることを示して見せる。事務員は彼の背後にいる武装した兵士を気にしながら、恐る恐る伺いを立てた。
「こんにちは、イーゴリ調停官。その、皇帝陛下から勅令を受けておりまして、失礼を承知でお伺いするのですが、『袖の下』をお持ちですか?」
竜騎兵がぎょっとして目を見開く。事務員もいつ攻撃されるかとそわそわしながら、上目遣いにイーゴリを見上げている。
イーゴリは背後の兵士を一瞥し、事務員を睨みつけた。震え上がる事務員は、竜騎兵の背後に隠れる。竜騎兵も動揺を隠せずに、小声で事務員に「おい、おい」と前に立つように促した。
イーゴリは懐の中に手を入れる。事務員が短い悲鳴を上げて目を瞑った。
「これでよろしいですか」
イーゴリはムスコール大公国で刷られた紙幣の束を取り出す。束の梱包には、贈 宰相閣下 殿と記されており、イーゴリがかえってそわそわとしているように見えた。
事務員は目を瞬かせ、札束を見つめる。やがて小さく頷くと、イーゴリが素早く札束を仕舞ったのを確かめ、ようやく竜騎兵の後ろから離れた。
「ど、どうぞ。ご案内いたします」
「賄賂?賄賂?」
ムスコール大公国の兵士の中からもどよめきが起こる。竜騎兵は呆れ果て、首を横に振った。
「どいつもこいつも……」
兵士達はどよめきながらも、進軍とも護衛とも伝えられた任務のために同行する。竜騎兵は仲間に事のあらましを伝え、見張り役として彼らに随伴した。