‐‐1896年夏の第二月第三週、エストーラ、ノースタット1‐‐
速やかに宮殿に集められた家臣たちは、沈痛な面持ちの陛下の姿に、嫌な予感がしたに違いありません。その日、ノースタットの空は晴れ模様で、町に繰り出した市民たちは食事の代わりにと食べられる野草などを摘むなど、比較的のどかに過ごしておりました。
しかし、こうした空の下で、陛下は一人頭を抱え、謁見の間の玉座に座っておられました。家臣たちが固唾をのんで見守る中、陛下は沈み切った表情で、静かに口を開きました。
「私が間違っていたのだ……。今ブリュージュのマリー様から連絡があった。プロアニア兵が、ブリュージュを占領したのだそうだ」
「……馬鹿な!そんなことを……!」
一同がみるみる顔を赤くされました。頭に血が上ったフッサレル様が机を激しく叩く。
「あの仮面人どもめ!まったく人の心を持たぬのか!」
フッサレル様はそのまま激しく身を震わせ、ゆっくりと顔を伏せられました。陛下は口を引き結び、傷心した彼の御心に寄り添うように言葉を探しておられます。
晴れやかな空から降り注ぐ光さえ、目を焼くような痛みとなって我々を照らします。言葉を失った私たちの中で、初めに言葉を取り戻したのは陸軍大臣であらせられるダン・ジェロニモ様でありました。
「陛下。ここは賢明なご判断を。第一に、帝国全土に皇帝への背信行為及び帝国内での内乱行為に対する応報として、プロアニア王を糾弾し、宣戦を布告することをご提案いたします」
「気でも触れたかジェロニモ様!そのような蓄えは我が国には御座いません!」
大蔵大臣を務めるリウードルフ様が叫びます。彼はこの場では陛下の次に高齢の家臣で、かつては皇帝選挙で陛下と激しい争いを起こした仇敵でもありました。
それ故か、ダン・ジェロニモ様は彼に対し刺すような視線を送っております。この年若い青年は、高齢のリウードルフ様を疎ましく思っておられました。決して血気盛んな性格の御仁ではありませんが、それでも若さゆえの刺々しさが、少々目立つ御仁です。彼はリウードルフ様を無視して、陛下に言葉を投げかけます。
「何もわが国だけで対処する必要はございません。カペル王国の協力を仰げばよいのです。それに、ムスコール大公陛下も、大事となれば、必ず調査団を派遣されるでしょう。今はひと先ず、相手への非難を世界に喧伝すべき時です」
リウードルフ様の非難の声にも動じず、この青年は言葉を続けます。私もさすがに彼を諫めるべきかと口を開こうとすると、陛下は私の言葉を遮り、手を膝に置きなおして、ジェロニモ様へと視線を向けられました。
「君の意見には一理あるね、ジェロニモ。しかし、年長者を邪険に扱ってはいけないよ。そこは、きちんとしないと」
ジェロニモ様は眉を顰めましたが、視線をそらして「ご無礼をお許しください」と答えられました。議場が落ち着きを取り戻したところで、リウードルフ様は静かに挙手をされました。
陛下の視線がリウードルフ様へと向かいます。彼は指先で計算盤を弾く仕草をしながら、独り言を呟きます。彼の背後にある古い甲冑に差し掛かった影が身を起こすと、リウードルフ様はそっぽを向くジェロニモ様に視線を送って咳払いをします。そして、いかにも言いにくそうに言葉を選びながら仰いました。
「……その、ジェロニモ様のご意見なのですが、私は賛成させていただきたく存じます」
「え?」
ジェロニモ様が目を瞬かせます。二人の視線がぶつかると、二人は全く同じ動きで、視線を反対へと逸らしました。
「不肖、恥ずかしながら、ジェロニモ様がプロアニアへ報復攻撃などをなさるのかと考えておりました。しかし、非難声明を上げ、カペル王国へと共闘の申し出をすることは、確かに利のある計略です。ブリュージュはカペル王国との国境故、プロアニアのブリュージュ占領によって、主戦場がカペル王国へと移る恐れがあります。つまり、カペル王国としては、プロアニアがブリュージュに進出することを嫌うはずです。だとすれば、我が国とカペル王国は共通の敵を得ることになるでしょう。そこに加えて、ムスコール大公国も、4か国協定の締約国として、何らかのアクションを起こさざるを得なくなるでしょう」
リウードルフ様は、陛下にというよりは、ジェロニモ様に正誤を確認するように、気を配っておられるようでした。二人の視線は交わりこそしませんでしたが、ジェロニモ様の表情には明らかな罪悪感を感じ取ることができました。
陛下はジェロニモ様の同意を静かに待たれております。広い部屋には混乱ではなく、現実的に整理が可能な問題だけが山積しているように見えました。
背後の甲冑に背中を押されるようにして、ジェロニモ様が視線を正します。リウードルフ様の控え目な瞳をややきまりが悪そうに見返しました。
「仰る通りです。毅然とした態度をとることは、我が国の国体を維持するためにも必要な手段だと考えております」
「……問題は、この緊急事態に、民からの理解が得られるか否か、ということです」
フッサレル様は手を組んで仰いました。陛下は視線を窓の外へと向けます。未だ祖国の民には、ブリュージュの一件については公表されておりません。此度の食料危機に、豊かな耕地を有するブリュージュの占領が不用意に伝われば、民の混乱を招きかねません。
「公表については、私が責任を持つ。ここは、カペル王国と共にプロアニアへの対応策を協議することにしよう。突然に集めてしまって、申し訳なかった」
陛下はそう言って立ち上がり、深く頭を下げられます。我々はさらに深く平伏し、陛下へと忠誠の意思を伝えました。陛下は困ったように笑みをこぼすと、静かに、執務室へと戻っていかれました。