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鉄塔のアエネイス  作者: 民間人。
1895年
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‐‐1895年春の第三月第一週、エストーラ、ノースタット1‐‐

 以前はこの場所に暗い影が遮っていたことを、臣民たちは歓喜の表情で語っておりました。

 帝国首都ノースタットの新たな出発点として、高い市壁を取り払ったその跡地に、舗装された環状道路が築かれました。今日は、待ちに待ったその開通日でありました。

 御用馬車に私と隣り合って乗車する、年老いた皇帝ヘルムート・フォン・エストーラ・ツ・ルーデンスドルフ陛下は、環状道路の周りに立ち並ぶ趣深い建物の群れを、どこか憂いを帯びた表情で見つめておりました。


「陛下、ご覧ください。衆目の輝くさまを。陛下がおおせの通り、これより交通も交易も、捗ることとなりましょう」


「あぁ、そうだな……。私は、嬉しい」


 陛下は何事かがあると、必ずこう仰せになるのです。しかし、どこか虚ろな……というよりは、思いつめたような表情を、常に留めておられます。

 環状道路の左手には、これまでの市壁の代わりとして、緑の並木が居並んでおります。その向こうには幾つかの農村を含んだ巨大な住宅地があり、その外側には遥かに見渡せる田園風景が続きます。右手には、商人や職人の集合住宅や、飲食店、宿屋、それにバルなどが並びます。その向こう側には中心に向かうにつれて豪奢になる建造物があり、中心部には陛下の好んで暮らすベルクート離宮や、ノースタット城、それに我々家臣らが住む官邸や、議事堂などがあります。

 これまで、市壁を跨がなければまみえることのなかった2つのノースタットの光景が、馬車の車窓から、左右に同時に広がるということ……それは驚きでもあり、これまで日の光によって目覚めることのなかった人々にとっての喜びでもありました。


 それでも、陛下は物憂げに長い髭を揺らし、どこか遠く彼方を眺めるようにしながら、人々の弾けるような笑顔を見るばかりです。どういうわけか、陛下は彼ら臣民の喜びに尽力し、手を尽くして多くを叶えたにもかかわらず、こうして悲しげに瞳を潤ませることが多いのです。感極まっているというよりは、どこか焦っているような印象を、私自身、感じずにはいられません。長く侍従長として勤めたにもかかわらず、私は、陛下の御心に寄り添うことがかなわぬことを、ひどく心苦しく思うのです。


「ノア。民は、心より喜んでくれるだろうか?屠殺の悲鳴が聞こえたり、戦争の惨禍が間近に見えるやもしれぬと、心中穏やかでない思いを、抱えていはしないだろうか?」


「陛下は考えすぎなのですよ。ご覧ください、臣民の歓喜に浮かれる表情を。皆この開通式を、心待ちにしておられたのですよ」


 それでも、陛下の心は晴れません。今更私がおべっかを垂れているなどと、そうお考えなのであれば、それは却って失礼千万というものです。陛下は良く湿った瞳で一点を見つめ、小さなため息を漏らされました。

 環状道路の真新しい建物群、幾何学的なアーチで彩られたゴシック新式リバイバルの豪奢な店舗が立ち並ぶ環状道路の一角に、小さな墓碑が建っております。その墓碑は西南西の方角を向き、静かに羊の御座へと向いております。私はあわてて、陛下の視線をその場所から逸らすべく、快活な声で美しい劇場を指さしました。


「陛下!あれが舞台座でございます!」


 そういうと同時に、馬車は首都の旧東門跡地に建てられた舞台座の前に停車いたします。そこから視界に入るほどの距離に、件の墓碑が御座います。今年還暦を迎えた陛下は手で顔を覆い、額の皴や弛んだ頬を持ち上げると、抜けきらぬ憂いの表情を抑えつけて、小さく「よし」と仰せになりました。


 既に舞台座前には烏合の衆が陛下の到着を今か今かと心待ちにしておりました。溢れる期待のまなざしに混ざって、さざめく歓声が、長い革のブーツが馬車より降り立つのを出迎えます。陛下は努めて快活に振る舞い、左に持つ銀製の杖を頼りに通路へと降り立ちます。古い教会堂の趣を漂わせる、彩りも鮮やかな薔薇窓を持つ玄関には、閣僚が立ち、陛下に深く礼をして、舞台座の開館に華やぎを添えます。この錚々たる面子を揃えた陛下の還暦祝いのアーチを潜り、陛下は舞台座の前で全臣民に向けて大きく手を振り、そして老練な弁舌を振るわれたのです。


「皆様、今日はこのような盛大な式典にご招致いただき、誠に有り難く存じます。私が故国ムスコール大公国はウラジーミルを発ち、ノースタットの地に初めて足を踏み入れたのは、今から37年前、23歳の頃でした。右も左もわからぬ若造が、唐突にこの高貴で、歴史ある都に降り立った時、ノースタットの市民の皆様は暖かく、私を迎えてくださいました。その時に感じた高揚感のままに、私はノースタットの優れた歴史と文化に感銘を受け、言葉を学び、芸術に、舞楽に熱中して、この長い人生を歩んでまいりました。今や、私は皆様と深い絆で結ばれております。これらの絆は、わが両親の……厳しい冬の寒ささえも退ける、暖かく幸福で、強固な絆にも劣らぬものでございます。こうして皆様と共に歩むことができた時間を誇りに、今後とも、臣民の為に邁進していく所存でございます。ただ今日は、皆様と喜びを分かち合いたいと、ささやかな舞台をご用意いたしました。どうか、心行くまでお楽しみいただければ幸いでございます」


 陛下は深く頭を下げる。渾身の最敬礼は、臣民たちの喝采を浴びました。ここ舞台座は、幹線道路リング・シュトラーセの開通という、記念すべき、歴史的な瞬間に、こけら落としを迎えるのでございます。


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