‐‐1904年、春の第三月第二週、アーカテニア王国 王都マドラ・スパニョーラ2‐‐
修道院の戒律にちなみ、サビドリアは写本の作成に没頭している。アーカテニアの修道士は毎日を祈祷や手芸、農耕など、厳格な時間管理の上で仕事を続ける。本来休日である祈りの日は彼らにとって最も重要な業務である説教があるため休日はなく、閑居なく毎日を過ごしている。
大判の四つ折り写本には古代の詩吟が転写され、彼の流暢な筆遣いによって、古代言語は教会の公用語である神聖文字に翻訳され、現代に傑作が継承される。この国の哲学はこうした敬虔な信徒によって発展していったのである。
鯨油に灯した火の微かな明かりを頼りに、書見台に開かれた古典が捲られる。右手でインク壺から取り出されたペンが、闇の中で鈍色に明かりを反射する。
フランツは、壁に背を預けながらサビドリアの筆遣いを眺めつつ、目を細めながら暗闇に目を慣らす。静寂と闇に沈む室内には、至る所に古い書籍の山があり、紙のにおいが充満しているが、それ以外の何かを視認することは出来ない。ただ、僅かな鯨油の光を剃髪とペン先が反射しているだけだ。
「サビドリア師。告解部屋ではどのような告白を受けたのですか」
「お答えすることは出来かねます。彼女の名誉のためです」
サビドリアは粛々と答える。彼は聖職者特有の、穏やかな微笑みを湛えている。
「では、質問を変えましょう。貴方は神に誓って、私達に誠実であると言えますか」
「勿論誠実です。貴方がたが誠実である限りは」
彼の言葉に歯切れの悪さは一切ない。フランツは壁から身を起こし、書見台の傍へと歩み寄る。細く節くれだった指先が古典を捲る。フランツに無防備な背中を晒したまま、彼は転写の聖務をこなす。
書見台に乗せられた書籍は『大いなる鍵の書』と題されている。それは、古代文字で書かれてはいたが、明確に神意に反する内容のものであった。
「貴女が転写している書物は、どうやら異教の書のように見えますが。相応しいものを転写するべきではないでしょうか」
「そうですか?修道士の聖務としての転写では、意味を解さない書誌であっても聖務をこなすことに意味があるのです。この書物にかかれた内容に関して、またそれを転写することに関して、やましいところはございません」
フランツは徐にサビドリアの背中に手を添える。そこで初めて筆が止まり、仄暗い影に隠れた淫靡な雰囲気の視線が、フランツの瞳を捕らえた。
獲物を嬉々として受け入れる獣のような、爛々とした不気味な瞳。聖職者らしからぬ歪んだ口元。そして、恍惚とした赤い頬。
フランツは深い呼吸をし、闇の中で一際輝くサビドリアの瞳に向けて問うた。
「サビドリア師。いいえ、アツシ・アリワラとお呼びした方が宜しいでしょうか」
サビドリアは目を弧にして笑う。紅潮した頬を両の手で包み、下に引き延ばすように下ろす。引き延ばされた頬と共に目がこじ開けられ、潤んだ瞳は恍惚として輝いている。
耳をつんざく嬌声を上げたサビドリアは、興奮のあまり荒い息遣いのまま、フランツに期待の眼差しを向けた。
「何ゆえにそう思うのですか?何ゆえに私を、そのような人と思うのですか?」
「私は、アテーナなる神のことを知りません。それが、貴方が異教の者であるという何よりの証拠です」
サビドリアは歓喜の悲鳴を上げ、自らの喉を締め上げる。空気を求める喉がひゅうひゅうと音を上げ、白目を剥いて涎を零し始めた。
「何という僥倖でしょう!百と七十も死と再生を繰り返した甲斐がありました!フランシスコ、私はこの激情を貴方が仕える者に捧げることといたしましょう!」
サビドリアの顔が青白く変色し、爪を立てた指に動脈の血が滴る。薄気味の悪い哄笑が部屋中に響き渡り、窓の外が日没と夜明けを繰り返す。
フランツは対峙する相手の薄気味の悪さに加え、その魔術師としての強力さにも身震いした。時間の経過をさせずに、朝と夜を繰り返す魔術などというものを目前で披露されることなどあり得ないことであった。カペル国王のアンリは勿論、歴代の王も彼より優れた魔術師ではなかっただろう。
直感で恐怖を感じるほどの強大さを見せつけられ、フランツは思わず声を震わせながら尋ねた。
「貴方が力を貸して下さるならば心強いですが、もし本当にアリワラ様であるのならば、彼女を悲しませたり、苦しめたりすることだけはやめてください」
首に出来た8つの爪痕から血を滴らせながら、サビドリアは口を歪ませて笑う。
「大いなる者に誓って、私の力が彼女を挫くことはありません。ですが、私の享楽に付き合って頂くことはありましょう」
サビドリアは両手を前に出す。彼の指先から急速に腐敗が進み、腕が枯れ木のようにはりを失くしていく。
「私、生前から狂乱と殺戮と、誇り高きものの堕落や破滅に快楽を覚える性分でしてね?ねぇ?」
肉体がどろどろと溶けていく。死体から死体へと精神を乗り移す、死霊魔術師の実態を見せびらかすように、彼は朽ちた肉体をフランツに近づける。耐え難い死臭と目前に迫る言いようのない恐怖に、彼は自然と後退りする。
「私の協力を得たいのであれば、相応の誠意を見せて頂けるのでしょう?」
フランツの背中が壁にぶつかる。肉体が壊死し、一部の骨が露わになるそれは、異臭を漂わせながら、フランツの頬を撫でた。
「貴方の亡骸はさぞ居心地がよいでしょうね」
フランツは首を横に振る。彼の眼の前で目玉が零れ落ち、歯茎を剥き出しにした口が頬を持ち上げる。
「貴方の思うように、カペル王国民の解放をなすと良いでしょう……」
フランツは身を震わせながら顔を背けた。漂う死臭が収まっていく。彼が恐る恐る目を開けると、端正な風貌のサビドリアが笑顔を浮かべていた。
「神慮めでたく。貴国の誇りを取り戻すことに承諾いたしましょう」
彼は落ちた片目を拾い上げると、書見台の方へ戻っていく。腰を抜かしたフランツは、壁に体を預けて床に座り込んだ。