‐‐1904年、春の第三月第二週、アーカテニア王国 王都マドラ・スパニョーラ1‐‐
潮風のにおいとべたついた風が肌を撫でる。目を真っ赤にした王女イローナは、フランツと共に馬車に揺られて修道院を目指していた。
カペル王国と比べると建物は新しく、潮風による劣化を防ぐためにタイルを張られている。タイルを用いたモザイク画がある建造物は富豪や貴族の邸宅であり、修道士や神々、神の実在を示すイコンが描かれている。人物画は特徴的な風貌をしており、どれもそれほど見た目には差が見られないが、その持ち物で描かれているのが何者であるのかを示してくれる。
タイルの艶やかな外壁が陽光を得て白く輝き、色彩の豊かな建造物が続く。海鳥は空高く飛び、外洋には常に大きな帆船の姿が見られた。
馬車は一度海沿いに出ると、暫くはその道を進んでいく。そこは荷馬車や伝令が往来する首都経済の中心地であり、名高い大富豪であるリオーネ子爵の経営する銀行が、特に目立った建物である。銀行の前には鼻の削げた神の立像が立ち、嘴の先端が丸くなった鳶が両翼を広げている像が上部に飾られている。
観光であればどれほどよかっただろうかと、フランツは美しい町並みを浮かない表情で眺めた。
海はキラキラと輝き、空の色と混ざり合いながら水平線の向こうに消えていく。白い雲が海と空とを区切り、揺れる水面の上を面長のガレオンが浮かんでいる。風向きも程よく、服に貼りつくじめついた風を除けば、遊覧に出たくなるほどであった。
やがて海沿いの開けた大通りを離れ、再びタイル貼りの建物に囲まれた狭い路地に入る。急峻な傾斜に、馬が重たそうに嘶く。路地を登りきると、フランツの視界に背の高い鐘楼が現れた。
一際美しい純白のタイルと、荘厳な杉の扉、色とりどりのステンドグラスを散りばめられた修道院は、何物をも拒まない寛容さで、現れた馬車を迎え入れた。
「イローナ様、行きますよ」
フランツが手を引く。彼女はその手を振り払った。フランツは仕方がなく強引に馬車から出し、強い力で修道院の玄関まで引きずっていく。
「嫌だ、離して!」
「イローナ様、私のことが嫌いなのは仕方がありませんが、今は耐えて下さい」
イローナはフランツの手を振りほどくと、肩を怒らせながら、教会に入っていった。
内部は質素で纏まりのある黒色の壁に囲まれている。正面には説教台があるが、カペル王国ではお決まりの神の立像がない。代わりに、黒い壁面の中央に、真っ白な円形のタイルがはめられている。窓から射しこむステンドグラスの灯りと異なり、この光沢のあるタイルからは灯りを受け取ることは出来ない。
全体的には仄暗い雰囲気を持つ修道院だったが、一方で、ステンドグラスで地面に映った光は眩く、人の表情もはっきりと見分けられるほどには明るかった。
院内には篤信家たちが集い、カペル王国の人々へ祈りを捧げている。女性は黙って手を合わせ、男性は祈りの言葉を暗唱する。
それは、旧来の修道院らしい光景であった。
「アーカテニアは古い伝統的な信仰が強固に守られております。我々は自由や平等よりも、信仰と秩序を愛するのです」
イローナの手を引っ張ったフランツは、声のした方を向く。真っ黒なローブを身に纏った剃髪の男が、腹の前で手を合わせて佇んでいる。
「貴方がサビドリア師ですか」
男は意外そうに眉を持ち上げ、手を掴まれているイローナに視線を送る。手を振りほどこうとする彼女の顔をまじまじと見つめる彼は、得心して、両の手でこめかみを抑えて頭を下げた。
「これは、これは。神慮めでたく、イローナ王女殿下。お目にかかれて光栄に存じます」
「教会で乱暴はダメなんでしょう?彼を糾弾してよ!」
イローナはフランツを指さして声を荒げる。甲高い声に驚いた篤信家たちの険しい視線はイローナに突き刺さった。
「な、なに……?」
男は右手を盃をあおぐように天に掲げ、立像一つない説教台の向こうへと頭を下げた。
「おお、我らが君よ。この者に神罰の下されることのないように。これより彼女の告解を行い、貴方の御心に沿うように改心させると誓いましょう」
男はイローナを見下ろして微笑む。彼はフランツと顔を見合わせ、頷いた。
訳の分からないイローナは、告解部屋の中に押し込まれた。
フランツは彼女を告解部屋に押し込むと、さっさと扉を閉ざし、その前にぴったりと貼りついた。
「ちょっと、開けてよ!」
イローナは扉を激しく叩くが、一向に扉が開く様子もない。最後にフランツの背中に響くような強引な一撃を扉にくらわすと、観念したのか、彼女は扉を叩くのをやめた。
「もう、なんなのよ!」
イローナはずかずかと肩を怒らせて、手近にある椅子に腰かける。
椅子の前には窓のついた扉があり、窓には朱色のカーテンがかけられている。室内はそれだけであった。
「……告解部屋ね」
カペル王国では形骸化した幾つかの古いルールがある。女性が教会で話してはいけないこと、神の立像にむやみやたらと触れないこと、修道士になれなれしく話しかけないこと、そして、修道士自身が厳しい戒律を全て守ること。アーカテニアではそれら全てがごく当たり前に行われていた。
ひとりでにカーテンが開く。イローナは思わず短い悲鳴を上げた。
先程、サビドリアと呼ばれた男が、カーテンの中から顔を出した。
「おお、迷える子羊よ。汝の罪を告白しなさい。第一に、貴女の奉ずる一柱を、聖ヨシュアの下に晒しなさい。たとえ欺こうとも、主は貴方のことを知っておられる。故に貴女の心のままに告白し、許しを請うのです」
「な、なに?いきなり……」
イローナは目を瞬かせる。彼は再び言葉を繰り返したため、イローナは渋々答えた。
「私の主宰神は女神カペラ。大いなる花冠の女神」
「では、第二にカペラに誓って、嘘偽りなく、貴女の御心が抱く罪を告白なさい」
イローナは冷静さを取り戻し、先程の騒動について、カペル王国で形骸化した本来のルールについて思い出しながら答えた。
「……私は教会で無暗に話をし、大いなる者に礼節を欠く行動を取りました」
窓の向こうにある彼の顔が、穏やかなものに変わっている。アビスの御羊の御座で見たような、聖職者特有のすまし顔である。
「本当に、それが貴女の御心が抱く罪でしょうか?」
「は?」
扉越しの顔を睨みつける。このような茶番は神に対して何らの影響も及ぼさない。それはカペル王国が犯した多くの涜神行為に、何らの罰も下らなかったことから明らかであった。
光の入らない狭い部屋の中、焦げ茶色の松の扉が三つ連なるだけの簡素な内装。分厚い壁に囲まれた密室では、誰も何かを盗み聞くことは出来ない。装飾のない、清廉潔白の部屋である。
「……本当は、貴女は別の罪を抱いている。誰もが逃れられぬような、重篤な罪でしょう」
イローナは初めそれを嫌がらせの類だと捉えた。彼女の中にある罪の意識を手繰り寄せる。彼が知る由もないような些細な罪ばかりが浮かんだが、最後にハッと息を呑んだ。
光のない室内で、男の顔だけが色を帯びている。その顔が神聖な飾り物のように見え、その瞳は硝子玉のように澄んで見えた。
「私は……大切な人を見殺しにして、アーカテニアまで逃げてきました」
「その大切な人とは?」
「フェルディナンド・フォン・エストーラ、アンリ・ディ・デフィネル、アリエノール・ドゥ・フランソウス。私の家族です」
自分には何をする力もないから、仕方ないことだとも思えた。しかし、自分よりも何をする力もないはずのフェルディナンドが、小銃を握り、敵に立ち向かった時、彼女はフランツに引きずられて国境を越えてしまった。
‐‐抵抗はしたが、速く地獄から逃れたいとも思った‐‐
その罪深さを、躊躇うことで、フランツに背負わせたように思える。自分の命や家族の命惜しさに、国民を押しのけて国境を越えようと思ってしまった。それは殆ど経験からくる逃避だった。
「貴女の心は現世に執着している。それは明らかな罪であり、貴女を守ろうとした人々は正しい心を持っている」
彼女は静かに頷く。一人の心で、沢山の不幸を退けたいと願ってしまったと。
「その罪深さを愛しなさい。ヨシュアは遍く地上を照らすお方。カペラは地上の美しさを司るお方。貴女の罪は美しい罪です。我らを生み出し育みたもうた神々に対して誠実な罪です」
「私の心が許さないの!でも、どうしろというの!」
イローナの声は密室に反響した。慟哭と共に後悔が滲む。胸が締め付けられるように痛んだ。
「貴女が愛したものを取り戻すことは出来ません。ただ、貴女が愛した者を信じて戦った人々に、報いることが贖罪となります」
男は窓越しに手拭いを差し出す。イローナは顔を歪ませながら、手拭いを受け取り、涙をぬぐった。
「この光溢れる地から、汝らの国民を導く戦女神アテーナとなり、民を勝利に導くのです」
男はそう言うと、カーテンを閉ざした。イローナは一人、部屋の中で涙を流し、やがて顔を持ち上げる。彼女の家族を信じて戦った者たちに報いるために、おもむろに立ち上がった。